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素朴な疑問
837
:
アネモネ
:2003/09/28(日) 22:00
(つづき)
また常々思うことなのですが、教団での法話や説法、もしくは講演といった集会に集まる人たちというのは、ほとんどどの組織も既に入信した信者ばかりの集会かと思われます。この信心を既に誓った人ばかりを対象に話をしているわけですね。前提のもとの説法なわけです。しかし私は、そこからしてだめだと思うんです。というか、それだからだめなのではないかとさえ思います。
pndarikaでもそのうち議論をしていくところでもありますが、本来的にいえば、教団のリーダーで説法や法話をする立場にある人たちは、日蓮さんがそうであったといわれているように、まず世間の不信の人たちに向けて仏法を語るべき立場にあるのではないでしょうか。そうすればいやでも、一般的な質問や疑問や感想、場合によっては批判を必ず受けることになります。それらを受ければ、自ずと誠実に答えなければならないわけです。
本来、宗教の場とは、そういうやりとりが当たり前に開かれていなければならないと思うのです。仏教の他宗派にしても、概ねそのようなことが開かれているというのに、石山系はいまだに不信者に対して門を閉ざしている傾向にあり、そのために非常に排他的意識や差別的意識が強いわけです。ですから、そこに集う信徒も、知らず知らずにそのような体質にどうしても染まり、宗教の本来的な目的を忘れて、世間にも通じる話に心を砕くことができなかくなってしまっているのではないかと思うのです。
しかしそれでは、信徒はますます自分の教団を客観視できなくなるという傾向になります。教団の社会性の欠如は、そのまま信徒の社会的不適応を招く人格を形成し、そこから妄想性が生じるものともいえます。ご自分の人格や人間性を守るためにも、社会への扉は常に開けておくように自分で心がけるべきかと思います。
>じっさい、この掲示板を見ることすらないわけでして、
実際にはそうでしょうね。ただ、石山系組織の折伏被害を受けている人は熱心にご覧になっているのではないでしょうか。
>そうなると、ようは、アネモネさんのような境地に到達するためにはどうしたらいいかといえば、けっきょく、どこかの教団を経なければ到達できないのではないか? という問題を考えているわけです。
要するに言い換えれば、今の私があるのも、教団のおかげではないかということでしょうか。
私自身の個人的なことでいえば、まあこういう組織信仰も経験せざるを得なかった人生だったのかなあ…という思いで人生を受けとめている部分はないわけではありません。くよくよ後ろ向きに考えては前に進めませんから、そう思うことにはしています。
しかし、教団に入ったことで実際に失ったものもたくさんあるわけです。
教団の指示に従って、熱心に折伏活動をしようとしていた時期もありましたので、そのときには自分の大切な家族や友人に対して、心ない脅し半分の言葉でもって入信を煽ったりもしているのです。その人たちが受けた心の痛みは、もしかしたら今も残っているかもしれません。これは取り返しのつかないことです。そのことを考えると、今ある自分は教団のおかげなんていう思いはとても持てないですし、むしろ自分の軽率な入信と勧誘を悔いるばかりです。ですから、とてもじゃないですが、教団への加入を経ることなど、私は決して人には勧めませんし、正直なところ、今、組織にいる人たちにも軽率な勧誘を思い留まってほしいと思っています。
仏法上、人にこの法を教えなければいけないという思いは、今の私にはありません。
そもそも、「この仏法」というその仏法が何なのか、今の私はまるでわかっていなかったということにも気がついたからです。伝えるべき「この仏法」というものが、はっきりしないというのが現状です。
今日、私たちが教えられてきた日蓮仏法にしても、真偽未決の書も含めて成り立ってきたものだったわけですから、本当にそれが日蓮の仏法であることは確証できないわけですね。そのような曖昧なものを広める責任は私は持てません。また仮に、日蓮仏法がはっきりしたとしても、依経とした法華経が、残念ながら釈尊の直説ではないことがはっきりしているわけです。しかし、日蓮が釈尊の仏法を求めていたことは、はっきりしているわけで、もしも日蓮さんが法華経の成り立ちを知っていたならばどうだったのだろうかということも、常に頭をよぎるわけですね。
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