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素朴な疑問

81犀角独歩:2002/07/19(金) 17:24

> ウチの住職は、お寺に赴任した頃(まだ25才の若さでした。)に、母親に御講に参詣した信徒の下足の数と、ご供養の封筒の数を数えさせ、二つが合致しないと御講の法話の中で、していない人はして帰るようにご指導?していました

本当ですか。寺院名を挙げるとご自身の匿名性が失われるのでしょうが、私は、このような摘発が事実であれば、どしどし実名で非を説くべきであると思っています。

こういうことを黙って聞いてはいけないのです。「あんた、なにを言っているんですか」と窘めて、自分のこめかみを人差し指でトントンと二回叩き、「ここ、大丈夫?」と、惚けたおつむが壊れていることを、ちゃんと教えてあげなければいけませんよ。

こんなものを指導教師、手続の師匠、僧宝尊信なんて言って、持ち上げるからいい気になるんです。いちりんさんの仰るとおり、どこかでちゃんと精算してあげないといけないのです。はっきり言って、こういう手合いを僧侶などと思っていけないのです。真跡はありませんが、彼らが使う御書に「法師の名を借りて世を渡り身を養うといへども法師となる義は一もなし法師と云う名字をぬすめる盗人なり」とあります。このような者は僧侶ではなく、法の盗人です。御講で商う売僧というしかないでしょう。

私が学生時代に種々指導を受けた僧侶は「僧の僧たる自覚をあたえるは檀那なり」というのが石山の義であると教えてくれたものでした。古い檀家さんなんかは、小僧さんなんかが悪いことをすると怒鳴って叱りつけたりするものです。まあ、住職にそんなことをするとなると緊急事態ですが、若い世間知らずの者が住職になったのであれば、一般常識を教えるのは檀家の努めでしょう。これは自分の寺を檀家が責任を取るということです。それでもし、役を追われようと、寺を追われようと、断固たる信義を貫くのは祖師・日蓮への御報恩であり、必ず冥加に叶うと心得るべきであろうかと思います。

そして、決して等閑の供養はしないこと、道に外れた僧侶の供養は差し止めることが仏教の本筋です。聖人は『立正安国論』に

能仁(のうにん)の以後の経説(きょうせつ)は則ち其の施を止む。

と記されます。僧侶に理不尽な行動・言動があれば、その非を責められないまでも、供養をやめることは檀那として、正しい在り方でしょう。


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