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素朴な疑問

75犀角独歩:2002/07/19(金) 11:47

供養の見返りを考えること、御利益信仰にはつきものですね。
そもそも、朝晩、勤行をするのも、「いいことがあるように、願いが叶うように」という欲求に基づいている人は多いのでしょうね。
供養は、喜捨ともいい、喜んで捨てること、捨てるから見返りを期待しないことと言われるわけですが、しかし、本当にそのような思いで御供養をする人は稀でしょう。

私の母親はここの掲示板で話題になる宗教団体の昭和28年からの信者でした。
40年間、居続けたのですが、財務、供養、出版物購入、レコード、テープ、興業チケット、活動費…、いったいいくらぐらい使ったのか計算してみたことがあります。ざっと7000万円、溜息が出る金額でした。

ふつうだったら、これだけの金品と労力、時間を費やして、言われた“効能”がなければ、裁判沙汰にもなるところです。たとえば統一協会であれば霊感商法被害などで訴訟となっているわけです。ところが、石山周辺ではならない。なぜだろう。しんみりと考えてみたことがありました。

私の母は「出した供養はあとになって倍になって返ってくる」という指導を本気で信じてつぎ込んでいったわけです。供養を出すときには、出すときに叶えたい願望、つまり祈願・祈念も篭めていました。

結局、出した供養があとになって倍になって返ってくることなんか、もちろん、ありませんでした。それでも文句は言わない。なぜなのか。これは要するに「倍になって返ってくる」ためには前提条件が付されているからでした。条件とは「もし、あなたの信心が強盛であれば」ということです。「叶う叶わないは各人の信心による」というやつです。もう少しわかりやすく言うと、叶わない=信心がない、叶う=信心があるという条件が付いていることになります。つまり、「叶わない。倍になって返ってこない」ということは「信心がない」ことを意味するレトリックが仕組まれているわけです。

信心をしている人は、たいがい、自分は信仰心があるという自尊心があるから、「信心がない」というレッテルを貼られることを、幹部になればなるほど、恐れることになるわけです。だから、叶わなくても、倍になって返ってこなくても、叶ったような、戻ってきたようなポーズを取るはめになります。それ故、「倍になって返ってくる、願いが叶う」という宣伝文句に偽りがあっても、文句を言う人はいないことになります。

また、これだけではなくて、倍になって返ってこなくても、願いが叶わなくても「お金という形で戻ってこなかったけれど、願いも念じた形ではなかったけれど、いま私がこんなに幸せを感じているのは、あのとき供養したからだ。自分に信心があったからだ」とすり替えられて肯定化されていく構造があります。

このような人の心理を、とことんわかったうえで、「倍になって返ってくる。願いは叶う」と指導して、恥じないのが、この組織というものであったわけです。

欲望・煩悩の肯定が大乗仏教だと吹き込まれた末路の常の有様です。
信者の多くが体験発表やらなんやらで、自分の成功、幸福をアピールしてやまないのは、実はこんな事情がひそんでいるのだと思います。

年老いた母の小さくなった背中を見ながら、この宗教の名を騙る悪徳商法の手口を、今頃になって気付いた、己の愚かさを思う自分があります。

そういえば、私の所属していた寺院の住職は、「ふつうの生活ができることが幸福なのです。つつましやかな生活の何が悪いのですか」と上述の在家団体にこするように御講で説法していたものでした。しかし、その当人が1億円近い個人預金を貯め、上場企業の部長クラスの給与を受け取り、国産最高級車を乗り回している私生活を知る側にとっては、空しく響く虚言であるとしか思えないものでした。


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