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素朴な疑問

392犀角独歩:2002/08/26(月) 12:24

あ さん:

> 石山でも、末寺の住職が本尊を書いていたのですか?

この点、特に調査をしたわけではないので「絶対に書いていた」などと言い切るものではないのです。これは前提です。仮に調査しても、石山の歴代住職の事跡すら追い切れないのに、各末寺の住職の750年の事跡、追えるものではないでしょうね。また、仮に曼荼羅が出てきても判形その他が為されていないはずですから書写人を特定するのは難しいだろうと予想されます。ただし、どこまで石山の本末とするか議論が分かれるところだと思いますが、西山、北山などいわゆる興門流と言われる寺院では書かれていますね。

曼荼羅書写というと、まず第一に思い出されるのが本尊三度相伝であるわけです。これは間違いなく興門の所伝ですね。その成立に、順師の本門心底抄は大きく関わり、さらに朗門に伝わっていることは執行師が明らかにしたところでした。

すでにこの一点を見ても本尊の書写については唯授一人ではなく、複数の人、それも興門に限らずに伝わっています。

第二点として、これはよく取り沙汰されるところですが有師『化儀抄』に

一、末寺に於て弟子檀那を持つ人は守りをば書くべし、但し判形は有るべからず本寺住持の所作に限るべし云云。
一、漫荼羅は末寺に於て弟子檀那を持つ人は之を書くべし判形をば為すべからず云云、但し本寺の住持は即身成仏の信心一定の道俗には判形を成さるゝ事も之有り、希なる義なり云云。

判形の為されない仮本尊の書写授与はあったものと思われます。
ただ、石山などでは、最後の「希なる義」という文を強く引き、恰も文全体に係るように言いますが、文は正直に読むべきでしょう。

また、尊師が本尊書写を法主一人の権能とし、一体も書写されなかったということを論い、それが石山の義でもあるような議論がありますが、しかし、尊師は興師の時代の人、有師はそれ以降の人、つまり、興師の時代に尊師はそのように考えたけれども、石山では特にそのようには守られず、化儀抄の記述となったと時系列によって読むべきであろうかと思います。

ところで、化儀抄で言う「判形」とは何でしょうか。通常の議論ではこれは書写人の花押、つまり、石山住職の花押であるというのが石山の言い分です。しかし、そうなると、「本寺の住持は即身成仏の信心一定の道俗には判形を成さるゝ事も之有り」という一節の意味が実際と一致しないことになります。

亨師の註解を見ると、ここの事情は複雑で

一には形木又は縮写のものに法主の判形を為されたるもの、
二には平僧の書写せしものに法主の判形を加へられたるもの
三には後代の法主が宗祖開山等の曼荼羅を其儘模写し給ひて更に模写の判形を為されたるものを形木又は写真版等となしたるもの
四には先師先聖の模写版又は形木に平僧が自らの版形を加へ又は平僧自ら書写して判形(自己)まで加へたるもの等

などと四つの分類を示されています。(これだけの分類が示されると言うことはそれだけの例を確認されていたとも拝せますが)

判形には平僧、法主(石山住職)、日蓮花押の模写の三つがあることがしれます。つまり、「本寺の住持は即身成仏の信心一定の道俗には判形を成さるゝ事も之有り」とは日蓮花押まで模写して授与するということなのでしょう。法主・平僧の模写(書写)の人の判形とは別です。しかし、これは稀なことであって実際は「日蓮在御判」と記されるのでしょう。
気がつくことは、石山から出す形木漫荼羅には平僧の判形も、法主の判形もない、言ってみれば、仮漫荼羅にもならない本尊であるという点です。この点で、すでに石山、あるいは学会頒布の漫荼羅は、少なくとも有師の言と一致していないことになります。こういうと、「いや漫荼羅に猊下のお名前と花押がある」と反論する向きもあるでしょう。しかし有師が言うところは書き判であって、花押の印刷を言っているわけではありません。

あさんの疑問からやや広がりすぎましたが、以上のことから、石山末寺住職(平僧)が漫荼羅を書かなかったはずはないと私は思うわけです。


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