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素朴な疑問

375いちりん:2002/08/25(日) 10:55

ワラシナさん

>こうなれば、宗祖にとっての「道諦」はどうなっているかということになるが、それが「南無妙法蓮華経とうちとな(唱)へ」になっていると観察されたのである。初期仏教の八正道が、ここでは一心三観の題目行に該当している、と思われるのである。

ブッダの文脈から、ちと考えてみました。

苦も楽も、この世間にあっては、つまるところ「苦」である。すべてが「苦」である。

厳密には、この「苦」は、ドゥッカ(不満足)という意味合いですが、どんなに幸福を求め、願いを達成したところで、この世間にあっては、つまるところ満ち足りるということはない。

なぜかならば、それは「欲」があるからだ。この「欲」というものは、「もっともっと欲しい」と限りなく増長していく。つまり「渇愛」(タンハー)であるから。

だから、「欲」に動かされ、むさぼっている自分に気がつかなくてはいけない。「少欲知足」の道を知らなくてはいけない。

……というのが、ブッダの説くところですよね。

日蓮さんにおいては、要するに、南無妙法蓮華経と唱えればいい。南無妙法蓮華経に「おまかせ」してしまえばいい。なにがあっても、南無妙法蓮華経。嬉しいにつけ、かなしいにつけ、苦しいにつけ、なにがあっても南無妙法蓮華経。それで、オッケーである。

ただ、ブッダの文脈からいいますと、なんでも南無妙法蓮華経でいいというのは、じつは「欲望につきうごかされて、欲の達成のために唱える」ということになりやすいですよね。まさに、現世利益、願望達成の呪文としての、お題目ということになっていく。

金が儲かる、大学に受かる、病気が治る、出世する、家が建つ、選挙に当選する、勲章がもらえる……というのが、南無妙法蓮華経の功徳であるという観念が強いですよね。

ブッダの説くところは、いかに願いが叶い、いかに幸福を得ようと努力しても、根底に欲望があるのだから、それは「苦」になるのだ。「いまの生き方では、どんなにやっても不満足に終わる」ということを言いたいのだろうと思いますね。


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