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素朴な疑問

361犀角独歩:2002/08/23(金) 06:46

―356からつづく―

> 「疑ふ心なくば・・」というのはどういう事なのでしょう

以上の点、返していませんでしたね。
開目抄のこの一節がいう「疑う心なくば」とは何を指しているのかが問題になるわけですね。「御本尊を疑う心なくば」「大聖人を疑う心なくば」「法主上人猊下を疑う心なくば」「先生を疑う心なくば」から、「日蓮正宗を疑う心なくば」「創価学会を疑う心なくば」「顕正会を疑う心なくば」となっていくのでしょう。この点について、五月雨さんは疑問をお持ちなのでしょうね。

「疑う心なくば」とは、「我が己心の仏界を疑う心なくば」ということでしょう。
止観にしても、本尊抄にしても、己心仏界を欠いては成り立たないことになります。私が常に口にする二十四文字の法華経もそうですね。我が己心の仏界のみならず、他人の己心の仏界を疑ってしまっては成り立たないわけです。仏教が成仏を目指す修行であるとすれば、己心仏界を欠いては成り立たない、この点を疑ってはいけないのだ。「私自身も私の弟子、所難に遭って己心の地獄界、餓鬼界ばかりを感じ、少しも己心仏界など思いもよらなかろうと、我が己心の仏界を疑うことがなければ自然に仏界に至ることであろう」という意味合いではないでしょうか。この意味において「疑ふ心なくば」と仰せになるのは道理であろうと私は思うわけです。

ただし、この「疑ふ心なくば」を悪用して、ただ信じることを強要する団体・指導者があれば、大いに疑ってみることが必要なのでしょう。


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