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素朴な疑問

310五月雨:2002/08/19(月) 12:17
―309の続きです―

>「広宣流布の遺命」があるとすれば、それは在家に対してのものではありません。偏に聖人の弟子、その弟子(僧侶)に託された命(めい)であるはずです。それは在家に与えられた職分ではないのです。

僧侶は折伏をしないもの、しなくて良いものだと思っていました。ウチの指導教師はお寺に訪ねてくる学会員をお寺に付ける事はあっても「僕は折伏の経験はありません」と堂々と言ってたくらいです。この言葉は恥ずべきものであったわけですね。「ウチのお寺の折伏成果が無いのは、講頭の責任です」とも言ってましたから、「偏に聖人の弟子、その弟子(僧侶)に託された命(めい)」という教育を石山はしなかったのでしょう。
大聖人様のお教えが、長い年月の中でここまで摩り替わってしまったのは、一体どうしてと思うのです。もしも大聖人様が「ご本仏」であったなら
そこに不思議の力が働いて、大聖人様のお教えそのままが今に伝わっていると思うのですが、そうではありません。やはり大聖人様はひとりの「人間」で在らせられたと感じます。もちろんただの「人間」ではなかったとは思いますが。

>未来広宣流布は日目がもう一度再誕して行うことというのが中古以降の興門の認識であったはずです。

 僧侶の誰もがその可能性があるから、敬わなければならないという理由付けになっているのではありませんか。本当かどうか分かりませんが、時の御法主上人には、「せい」の無い話ですね。いくらどう頑張ってみても“日目上人の生まれ変わり”でなければ「広宣流布」は出来ないのですから。

>折伏・広宣流布と詐称された勧誘・増員・集金を、聖人の教えなどと取り違えることなく、一人ひとりが、もう一度、その真の意味を考え直してみる必要があると私は思うのです

今の法華講員も学会員も、大きな大きな意味の取り違えをし、その為に人生を無駄にしているように思います。私も本当の意味を再認識しながら、縁ある人ひとりひとりに、話をしていこうと思っています。
いつもながら、素晴らしいご教示を下さいまして、有り難うございます。


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