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素朴な疑問

307犀角独歩:2002/08/19(月) 07:46

五月雨さん:

> 折伏しないと成仏出来ないと、大聖人様は本当に言われているのですか。

折伏とは何なのでしょうか。仏教の話をする、相手が入会の決意をする、なにがしかの書類にサインをする、印刷漫荼羅を買う。すると、「折伏ができた」と言いますよね。しかし、これは勧誘・増員なのであって、本当に折伏なのでしょうか。「桃梨さんが、この掲示板の人たちは人を救うという点がない」と言います。表面しか観ていない発言であると思うのです。

五月雨さんは、ここの掲示板にこられる以前、日蓮本仏論(下種三宝)・戒壇之漫荼羅が真実であると信じていた、しかし、創価学会、法華講について不審を抱いていおられた。

そこで、こちらにいらして、私どもと話されて、何か疑問が解けたところがあったでしょうか。もし、あったとしたら、これこそ、折伏の結果であると私は思っています。少し図々しい言い方をすれば、私はほんの少しかも知れないけれど、五月雨さんを“折伏”したのかもしれません。

誤認識を改めて、不明を開く、今まで知らなかった世界が見えてきた、そう差し向けた人がいる、さすれば、その人は自分の心の中の誤った考えを折り伏せて、少しでも正しいほうへ眼を向けてくれる、これが折伏であると、私は考えています。そして、その折伏の基底は常に慈悲であり、菩薩道を喚起するものである点が重要なのでしょう。

それは際限のない、無限の上昇でしょう。終わりはないのでしょう。私も多くの方から、このような意味での折伏を受け、月々日々新たに自分の間違いを改め、その度に心洗われます。そして、自分も知っていること、掴んだことの一端を人に語り、終わりなき心の上昇を促しています。それが私の折伏です。人を救おうなどとおこがましい事ではないのです。法の一端を知れば、やがて、その人は菩薩の道(慈悲に基づく行動)を重ねて、仏様の生き方を成就していく、それは各人と仏菩薩との関係に拠るのでしょう。

議論だけでは声聞・縁覚だなどというのは、勧誘・増員を折伏、あるいは慈悲と勘違いした、もっと言えば、そのように心に刷り込まれた(プログラミング、つまりはマインド・コントロールされた)植え付けられた誤った折伏・慈悲観であると私は思います。

ここの掲示板で、元々は一人として旧知の人などいません。しかし、そのまったく知らない人に対して、語らうこと、そして、その中から、何かを掴んでいただくことがあれば、それは折伏であると私は思っています。何の見返りも望まない、何の成果ともならない、この語らいこそ、折伏ではないでしょうか。あるいはまた、摂受でもあるでしょう。

私は五月雨さんを折伏し、五月雨さんはまた、私は折伏しているのではないでしょうか。

折り伏すという表現はとても強い響きがありますね。けれど、一心不乱に信じ込んだことに猪突猛進する直進的な思考を折ること、それまでの思いこみを伏せて新たな観点を提供すること、それが折伏なのではないでしょうか。

日蓮聖人の考えにしても折伏とは、もっぱらこの心の座標の変位を述べるものであって、徒に勧誘・増員を強調するような低俗なものであったとは、私には思えません。

折伏しないと成仏できない、そういう考えは日蓮にはあったかも知れません。
しかし、成仏を云々するのであれば、まずは折伏とはどういうことなのかを考え直してみる必要があると私は思います。


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