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素朴な疑問
281
:
犀角独歩
:2002/08/14(水) 19:27
ワラシナさんの考証はいったんお休みに入るそうなので、では、私なりの感想を少し。
基本的に日蓮の教えも、なにより今日の石山法華講においても、「信者にとっての信仰と経済に横たわる深い問題」など、そもそも元より問題にされていないのだろうと思うわけです。
日蓮信徒であった富木氏、四条氏、池上氏などの武士階級には、そもそもこの問題は無縁でしょうし、農民信徒といえども、改宗以降、日蓮の教えの元で「飯を食う」ことを想定したものではなかったでしょう。
戦後の創価学会、顕正会、また法華講にしても、「信心したら幸せになる」という極めて無責任なかけ声で、信者の活動参加と寄付(供養なんてものではない)を煽って、教団の発展と宗教法人職員(僧侶・本部職員)の経済的安定を目指してきたわけです。ここで信者のことなど、少しも考慮されているはずはありません。あるのは「信心強盛ならば経済的にも、生活は安定する」という“御本尊任せ”の放任主義が罷り通っているだけでしょう。
しかし、例えば創価学会はそれなりの共同体を構成し、“むしり取る”案配をしっかりと掴んでいるから、信者は、一般生活を守りながら、信心と生活を両立させるバランスを掴むに至った。これは、“問題”を解決したと言うより、宗教専従者(本部職員)の食い扶持を大多数で賄うから、一個人の負担が低下しただけの理由によるわけでしょう。
それに対して、石山は、学会との蜜月時代には500万規模の信者の搾取から、一挙に10数万程度に激減した。おまけに池田さんへの怨恨から建物を壊しては建て直すなどの暴挙を繰り返し、年に4回の登山を義務づけるなど、およそ常軌を逸した信仰という名の下の搾取形態を実行するに至っているわけです。これらはしかし、信者の経済問題ではなく、考えられているのは、単に石山と宗教専従者(僧侶)の生活のみです。
いまの石山の打ち出しは、広宣流布であるとか、日蓮主義であるとか、そんな高尚なものではなく、単に坊さんの食い扶持の確保、経済構造の構築に主眼が置かれたものであって、宗教的な理想とはまったく何の縁もゆかりもないものでしょう。
このようなところで、賢明な信者がなすことはただ一つ、適当な距離感を掴み、坊さんの言いなりにならないこと。石山の打ち出しは信仰とは関係なく、自分たち(僧侶)の飯の種にもっともらしい屁理屈をこねているだけという現実を見極め、自分たち(信者)を鴨ネギ扱いしている実態を知り、信仰は個人のものであるという原点に戻ることであろうと思うわけです。要するに生活の負担にならない、もっといえば生活を豊かにする宗教関与の仕方を自分たちで見つければよいわけです。
折伏は本来、僧侶の仕事、在家は個人と過程の幸福を願って、生活上の、精神面を豊にする目的で信仰を利用すればよいわけです。
私が過去40年間、「創価学会のため、池田先生のため」あるいは「日蓮正宗のため、日顕上人のため、寺院のため、ご住職のため」とやってきた失敗は、要するに「自分のために生きていなかった」ことが失敗なのであって、反面40歳以降、それがボランティアその他の参画であっても自分の意志で、自分の人生として考え直したことが成功であったと考えているわけです。つまり、与えられた線路=失敗、自分の人生=成功という縮図であって、けっして「信仰の名の下の隷属化、搾取を許さない」という生き方を確立できたことを成功といっているわけです。その意味で、法華講に入ったことが成功であるというワラシナさんの発言は私にはまったく理解できないわけです。ただし、記されている大方の考証はもっともであると思うところはたくさんあります。
ここで理解できないと言うのは、今の石山には、元来、目的とされた富士戒壇建立の意志もなければ、広宣流布の意志もない、つまり萎えた理想の代わりに食い扶持の確保だけに追われる餓鬼道だけが横行している。そこで、経済効率から、鴨(信者)にネギ(供養と労働力・忠誠心)を背負ってこさせるために役職だなんだと個人の優越感をくすぐる換言すれば修羅界(勝他の念)の斡旋で「信仰心があるという自惚れ」を増長させて人を動かす構造に身を委ねることが信仰であるとは思わないと言う意味です。
率直に言えば、その意味に置いて、ワラシナさんに「法華講3年間が成功」と言われると単に踊らされているだけではないのか?と、思えるわけです。
まあ、歯に衣の着せることは綺語であって仏戒に背くという見地から、敢えて思うままに記させていただきました。
どうも全体の文章は頷けるのですが、「法華講3年が成功」という一点だけは引っかかります。法華講以外の自分の生き方に戻ったことが成功というのであれば、納得はできるわけですが。
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