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素朴な疑問

2711犀角独歩:2006/03/20(月) 18:26:24

鳳凰さん

> 日蝕

これは日[虫*虫]ですね。
明るくも暗くもない中間の時間という意味であるとする説がありました。
この記述を日蝕とするのは、ひとつの類推であり、確定されたことではありません。

つまり日蝕から割り出す方法は、この記述が日蝕であるという仮定に基づくものですから、日蝕の日付を割り出して、特定する方法は決め手とはならないとわたしは考えます。

> 筆跡…下記のURLにリンク

たぶん、北林さんに疑義を懐く人で、このリンクを見ていない人はいないでしょう。ここで疑問に思うのは、なぜ、「身」の字に限って行っているのでしょうか。

以下、わたしが作製した対照です。日蓮の最も初期と後期とされる安第1と安123漫荼羅の「經」の字を並べました。この相違は歴然としていますが、このように違うと、どちらかが、偽筆ということになりますか。

http://www.geocities.jp/saikakudoppo/kyo_hikaku.jpg
(コピーしてアドレスバーに貼ってご覧ください)

元の漫荼羅は以下のとおりです。この両者を並べみても、日蓮漫荼羅を知らない一派の人であれば、同一人物による図示であるとわかる人はそういないでしょう。

http://nichirenscoffeehouse.net/GohonzonShu/001.html
http://nichirenscoffeehouse.net/GohonzonShu/123.html

まさかご覧になっていないわけはないでしょうが、不動・愛染感見記は以下のとおりです。

http://nichirenscoffeehouse.net/GohonzonShu/124.html
http://nichirenscoffeehouse.net/GohonzonShu/125.html


また、ご存じのことと思いますが、古い書法で同一文字が出てきたとき、いくつ異体字を書けるかでその人の素養をはかるということもあります。ですから、異体字を比較して、文字が違うといえば笑い話になります。

> 日蓮の本尊に不動・愛染の梵字があるからこそ、
> 感見記に、不動、愛染の生身を見たと偽書を作成した可能性も否定できません。

まあ、これは感見記が偽書である場合、このような動機は考えられます。
しかし、それと「発想が逆である可能性」とは脈絡がつながりません。
「日蓮の本尊に不動・愛染の梵字があるからこそ」日蓮の真言の影響あり、未分であるというわけです。

なお、首の座については、もはや問題外で、日蓮自身が子細あって実施されなかったというわけで、光り物等という話は論外です。


日蓮が否定したのは、法華経と大日経、釈迦と大日如来の比較で、法華経を大日経より下し、釈迦如来を大日如来を下すことであって、真言教義を斥けたということではありません。故に鳳凰さんが引用するように、法華の開会の立場から不動・愛染を摂取されたということでしょう。

鳳凰さんに逆にお尋ねしますが、法華経にも、天台文献に見られない、曼荼羅・本尊・不動・愛染、大日を日蓮が用いられるのは、一体、何の影響でしょうか。

真言義以外の何が考えられるのでしょうか
この質問ひとつで、日蓮は真言教義を用いていたことは歴然としています。

過去の過ちを改められずに、自分の所属集団が過去にいってしまったことに縛られて、為にする曲論をしても進歩はありません。
創価学会は過去に戸田さんが「お肉牙は不思議だ。汗をかいて、脈をして、成長している」といってしまったのは事実でしょうが、それを語らないことで、なかったような方法を取ったり、過去50年にわたり、真剣に研究されてきた内容を自分たちの都合と会わないからといって、会内でしか納得されないようなことを言い出して、庇えば、かえって世間の物笑いになります。

もういい加減、創価学会をそのような狭い了見から解放したらどうでしょうか。


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