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素朴な疑問
271
:
ワラシナ
:2002/08/13(火) 23:13
「信者にとっての信仰と経済に横たわる深い問題 15」(続きB)
2−3、つい最近までの傾向では機根については一様に聞法下種だから「強いて説き聞かすべし」で乱暴に扱っていたのではないかと思われる。例せば、自分の体験では精神疾患系の信者に対しては各人の素質を考慮せずにはいられない。普通一般の信仰基準を押し付けると望むところの信心増大が得られず、失敗する。飽くまでその人にとっての快適さを保持しながら接する特殊なノウハウが必要なのである。
3−0、
このような「人間構造的な機根ノウハウの欠如」と1で指摘した「急速な繁茂の後に急速に落ち込む」教団史とは何か関係があるのではないかと予想するのである。
ここでいう機根とは天台宗教義にあったようなものよりもっと生々しいもので精神医学、精神病理よりの概念のものを想定していっているのである。これに対する顧慮が教界では欠けているように思う。この原因は無理からぬ事であった。なぜなら御書に登場する人物像の類型を見ればわかる。近現代人には濃厚な神経症的人物像がほとんど出てこないからである。禅定修行では悪しき症状とされる遅疑逡巡する人物像がほとんど出てこないのは当然かもしれないが、丸で頭の中では何も考えていないかのようで、思い立ったらすぐ行動しているような人物ばかり登場しているからである。まるで鎌倉御在世での人間性基準の常識というものが、「人間の思想とは意識になんかには無くではなく行動そのものなのだ」といわんばかりの見事な割切り方をしている人物ばかりである。これが当時の常識であったなら現代的な神経症的人間像、病理学的人間像へ肉迫する事はまだ無理だったのだ、と言えよう。
これを環境的に言えば、当時では思想の自由も表現の自由もそれほど無く選択肢がない状態だった、これが当時の常識だったからなのだと思う。
前に書いた「鎌倉遺文的に感受すること」とそれを「平成現代的に表現すること」との微妙なギャップとはこれである。
3−1、教界では人間の価値を何かの所産、何かからの結果で決め付けることに忙しい。決して人間を何かの能産・原因として扱おうとしていない。従って、人間それ自体の価値が信じられず常に疑う傾向である。だから人間それ自体の可能性探求には興味を示さない。「言われたことだけおとなしくやってりゃそれで良い」という人間観だから。
(h14/8/13)
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