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素朴な疑問
2702
:
犀角独歩
:2006/03/16(木) 09:12:21
鳳凰さん
まあ、学会員で、少し教学を囓っている人であれば、誰でも言い出す同じ質問ですね。
要するに、創価学会員という範疇での、真言未分、感見記疑義というのは、北林さんの影響でしょう。会内の、伝言ゲームを自分の意見であると思い込んでいる類ではないでしょうか。
先ず、感見記についての、北林さんの見解より、諸師の鑑別を、わたしは信頼します。
日蓮の真言未分は、初期遺文類にあるところであり、何より「本尊」という言葉自体、真言の用語です。天台、妙楽はもちろんのこと、天台の初期文献に、この語の使用も、教義もありません。
そもそも、日蓮本覚論などという場合の「本覚」は、田村芳朗師も指摘しているとおり、空海にその起原を見ます。天台教学の本覚化は空海の影響であるということです。その学風を学んだ日蓮に真言の影響がないわけはありません。
日蓮漫荼羅で大日如来の勧請があるものもあります。日蓮における多宝如来観は、大日如来と密接な関係にあることは後期の遺文でも明らかです。
そして決定打。日蓮漫荼羅の左右に梵字で記される不動・愛染は大日如来の脇士であり、法華経には全く登場しないところです。その根拠は当然ながら、真言宗でしょう。
なお、質問以前の「方便」ということですが、これは upaya を語源とし、その原意は「近づく」という意味です。「巧みなる手だて」などという意味であるといわれるのが一般です。「ウソも方便」などというのは、俗訛した誤用以外の何ものでもありません。
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