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素朴な疑問

2535犀角独歩:2005/07/15(金) 11:15:59

―2534からつづく―

> 熱原の農民へ…

Aさんは、富士門流の方ですか。
お記しになられるようなことは、わたしも思っていたことです。

> 「三度国を諌めて用いられなければ山林に交われ」

わたしは、この考えは、法華経の精神に悖ると思います。
これでは「我不愛身命但惜無上道」という勧持品に、「不自惜身命」という寿量品に、「其罪畢已」という不軽品に違反します。
こう記せば、Aさんは、お怒りになるかも知れませんが、わたしは、この日蓮の隠棲は法華経からの退転ととらえます。但し、この点は意見の同意は見ないでしょうから、無駄な言い合いは止めといたしましょう。

> 長寿のゆえに優れている

わたしは、このような観点で、ものを記したわけではありません。
「病即消滅不老不死」を祈願をする本人には、それが利かなかった厳正な事実を記したまでです。ただし、鎌倉当時、60歳が早死にか・寿命かは即断できないところでしょう。しかし、この点を森山諭師は鋭く切り込みます。

「日輪のごとくなる智者なれども夭死あれば生犬に劣る」とは、文永12年、『可延定業御書』の一節です。果たして、この時点で、日蓮は、自分が60そこそこで死ぬと考えていたのか、一考を要すると言うことです。

> …信仰をおもちですか

宗教への信仰ですか。それはないですね。シャキャムニの教えは信じることと言うより、日々の心の持ち方・行いの在り方を示したものであろうと考えています。シャキャムニは尊敬しますが、信仰するというのとは違います。

> 唱題はされるのですか

するときもあります。よいものではないでしょうか。
けれど、これまた、考えてきたことですが、いまのような唱題のやり方を、しかし、日蓮はしていなかっただろうと考えています。

> 本尊

本尊という考えを、仏教であると思っていません。
このことも何度も記してきました。天台文献を渉猟すれば、すぐに気付けますが、「本尊」という成句は、ただの一度も使用されていません。これは密教用語、また、語彙は中国思想語から転用されたものであろうと考えていますから。

羅什の漢訳文は証憑に難があり、それに基づく天台釈も耐えません。まして、法華経が釈尊の直説であるはずはありませんが、その内容は惹かれるところはあります。そんな次第ですから、日蓮は信仰の対象となりませんし、漫荼羅を本尊と恃むこともしません。

> 私はこれから勤行です。

わたしにとっての勤行…、勤め行うことは、朝7時・昼12時・夜7時に母の食事を作り、日々介護し、また日夜、寄せられる山のような相談メールと電話に、誠意を持って応じることです。儀式化した経典を「本尊」の前で音吐朗々と称えることは、わたしの勤行ではありません。ただし、そのようなことをなさる方々を批判しようとは思いません。けれど、勤行・唱題をしているところに逃げ込んだり、それだけに止める姿は愚かであるとは思います。ただし、これは Aさんを批判しての記述ではありません。


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