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素朴な疑問

2530犀角独歩:2005/07/14(木) 10:49:59

―2529からつづく―

> …ゆえ無き侮辱とうけとめます。

個人的にはどうでもいいのですが、先にわたしに対して、「思わず笑った」「過敏反応」と記したあなたが、このような記述は大袈裟と自嘲されませんか。

わたしは日蓮を敬愛はするものの、既にその無謬性にはとっくに見切りをつけ、日蓮崇拝は卒業しています。そのわたしがどのように表現しようと、それは個人の自由に属します。そのような観点に立つわたしからすれば、このような記述こそ、過敏反応と映じるものです。わたしは、あなたがどのような信念体系下にあるかわかりませんので、適宜な応答となるやわかりませんが、発言の責任はあります。また、実際に蓮師晩年は満足したものではなかったと推察しているのは事実です。ですから、これに応じることといたします。

まず、あなたが引用される資料は、適切な引用であるとは、わたしには思えません。

> 「よからんは不思議、悪からんは一定とおもえ」

という記述を載せる『聖人御難事』は、たとえば、『平成新修日蓮聖人遺文集』には載らない資料で、確実な真跡かどうか、やや疑問はあります。しかし、完全に斥けるわけではありません。多くの場合、真跡と数えられるからです。仮にここで、この書を真跡として記します。
引用される文は、しかし、逢難の農民信徒に充てた言葉ではありませんか。これを日蓮自身に充てるというのは、短絡とわたしには感じます。しかし、それでも、その点をそのままに受け取って、やや記します。

日蓮自身が晩年に関するわたしの管見をあなたは「独歩説」と断定し、

> 日蓮聖人は老いさらばえて目的を達せず不満足の生涯

と記述していますが、その裏面を読めば「日蓮聖人は老いさらばえて目的を達し、満足の生涯」というのが、あなたの見解と言うことでしょう。しかしながら、「悪からんは一定」というのが、所願成就、すべての目的を達した満足した証文となるとは、わたしには思えません。

また、「日蓮末法に出すは仏は大妄語人、多宝・十方の諸仏は大虚妄の証明なり。仏滅後二千二百二十余年か間、一閻浮提の内に仏の御言を助たる人、但日蓮一人なり」という自讃が、目的を達成した満足した生涯の証文であるというのは、どのような意味なのか、わたしには斟酌しかねます。実際にこのように、いくら日蓮が自讃しようと、国主は日蓮を重んじることも、法華経に帰依することも、法華経での調伏祈祷を日蓮に仰せつけることもなく、また、それらが無くとも、結局、日本は亡びることはありませんでした。


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