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素朴な疑問

2502彰往考来(しょうおうこうらい):2005/06/24(金) 20:17:26

>2499バンナコッタさん
>大塩平八郎が乱を起こす前に曼陀羅を書写していたらしい

これは初耳です。2500で顕正居士さんが
>一揆の前に祖父が大石寺の上人から頂いた板曼荼羅を源立寺に返却したという話

と指摘されていることでしょう。なお、本件は、『大塩の乱関係資料を読む会会報 第32号』
http://www.cwo.zaq.ne.jp/oshio-revolt-m/kai32.htm

に掲載されている井形 正寿氏の「大塩家と日蓮宗」という論文に詳しいです。以下、その論文を引用します。(一部誤記訂正しました)
 大塩事件を調べていると、いろいろなところで予想もしないことに出くわすことが多い。 大塩平八郎の菩提寺は成正寺であることは、境内の大塩家九基の墓とともに世間周知の事実である。ところが、もう一三年も前になるが、意外なことを聞いた。それは、大塩平八郎の祖父・大塩政之丞が、日蓮宗富士門流大石寺末、源立寺の檀那であったと、同寺の門徒から告げられた。
 その門徒との出会いは、昭和六二年一月、池田市立歴史民俗資料館で開催されていた「大塩の乱と能勢騒動」展を見学し、帰り際に、館長に挨拶していたところ、突然、学芸員がいまここにいられる来館者の質問に答えられないので、ぜひ会って欲しいと引き合わされた。
 その後、門徒の手引きで源立寺の住職と数回お会いし、同寺が大塩政之丞由縁の寺であることがわかってきた。寺は開創以来四百年の歴史があるといわれ、明治一〇年まで摂津国西成郡薬師堂村(現東淀川区柴島一、二丁目界隈、一部は新淀川の河川敷となる)にあったが、同年一一月に、阪急池田駅から歩いて三分の池田市槻木一丁目に移転した。
 源立寺が大阪から池田に移転した理由として、大塩家ゆかりの寺であったため、幕府の宗教的弾圧を受け、廃寺同様の荒廃で明治を迎えた。これに追打ちをかけるように新政府の宗教政策によって、住職不在の寺の廃止が通達されて来たので、講中の人びとによって新しい住職を見つけるなど大変な努力がなされた結果、池田周辺に檀信徒が散在していた関係からか、明治一〇年に心気一転、現在地に移転したと寺史に書かれている。


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