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素朴な疑問

2496藤川一郎:2005/06/23(木) 12:28:36
銭函さん、はじめまして!
会津とありましたので、ここに一文書かせて頂きます。
会津には藩祖保科家より伝わる家訓があり、口語訳するとその第1条に
「大君(将軍家)を第一に思い、忠誠をもって勤めること。他の藩の行いをまねて行動するのではなく、将軍家の為に行動せよ。もしこれが出来ず、他の考えを持つものは、我が子孫ではない。」
とあるため、最後まで官軍に抗したという誤解があります。
しかしながら、会津戊辰戦争の時期には既に徳川宗家(将軍家)は大政を奉還をしており、しかも官軍への抵抗を禁止していた。だから、家訓に従い最後まで抗したと言うのは完全な勘違いでしょう。
確かにこの家訓に従い、当時の会津藩主である会津中将松平容保公が西郷頼母ら家老連中の反対を押し切り「京都守護職」に就いたのは確かでしょう。しかしながら、その松平容保公は孝明天皇より御宸翰を賜っており、その中の和歌にて「もののふとともに歩む」とあり、そのもののふこそ「松平容保」その人のことを読んだことは有名です。
すなわちそのお人柄に触れ、この帝のために全てを捨てんとしたのでしょう。すなわち彼らの認識では自分らこそ「誠の官軍」であると思っていたことは確かでしょう。
そして、もうひとつ忘れてはならないのが、当時の公卿の日誌に、「薩長が佐幕(保守)派の孝明天皇を暗殺し奉り、中山大納言を抱き込み、幼帝を擁して政権を奪取した」とあるのです。
生真面目な容保公が、こんな薩長に従えるわけがありません。会津の人にとっては、正義の戦争だったのです。それでなくては、家老西郷家の女性たちの「20数人壮絶自決」等という悲劇はありえません。
もちろん「孝明天皇暗殺」は現代でも、確実な資料はありません。しかし、明治40年代に伊藤博文を暗殺した安重根までもが、その裁判課程にて「伊藤博文が孝明天皇を暗殺した」等と述べている位、タイミングが良すぎる死に方だったことは事実であります。


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