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素朴な疑問
2448
:
乾闥婆
:2005/05/26(木) 10:41:16
>犀角独歩さん。
ブログにて「今成師の摂折論を聴講」の記事を読ませていただきました。以前『日蓮的あまりに日蓮的な』(太田出版)での今成氏の「摂折論をめぐって」を読んだとき強い衝撃を受けました。いままで折伏とは「折伏すること」であり、その強い語法に学会の問題を感じていましたので、「折伏される」との解釈は個人として驚天動地であり、それが事実であるならば、大きく折伏観を変更できるのではないかと期待したのでした。しかし何分にも『日蓮的あまりに日蓮的な』収録の論文は小編で、私のような学術界外部の一読者としては、もう少し紙幅をとった論文を読んでみたいと願っておりました。
確かに「転重軽受法門」を読みますと、蓮祖が強く時の権力に折伏された、「悪国」においては正法を守ろうとする者は「折伏される」との文意を読み取れるのですが、そのような受動性が、「開目抄」の文章などを読んでいると、感じられないのです。能動性が先にたつといいますか、涅槃経からの引用を踏まえて論を展開され、「破法の人を折伏する」ことに重点は置かれているように読めます。また国家の状況について「転重軽受法門」は「悪国・善国」という二分法ですが、「開目抄」では「悪国・破法の両国」といった二分法です。「悪国」においての受難としての「折伏」と、「破法」の国における「折伏」との、このよじれをどう読んだらいいのか迷います。
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