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素朴な疑問

2419犀角独歩:2005/05/22(日) 08:03:29

信解というのは、実に悩ましい言葉です。
顕正居士さんがお示しのように、その言語は「アディムクティ」とのことですね。これを信解と訳すのには疑問があります。

信解は、信と解なのか。もしくは解を信ずるなのか。また、解は、解するなのか・解脱なのか、どうもはっきりしません。しかし、一品の意からすれば、未来成仏を約束された(記別)わけですから、その趣旨を信じ、理解したということでしょうか。これが信(因)解(果)倶時のごとく解釈されていくのでしょうか。

わたしは個人的には、信というのは経験的蓄積の結果であると思いますから、まず、最初に信を強要するようなものは、なんでも疑ってかかる習慣を持つべきだと考えます。信を強要されることになれた多くの人は、実践の教学という割に何も知りません。ただ、打ち出された内容、教えられた解釈を鵜呑みにして信じているだけで失笑を禁じ得ません。やることと言えば、組織の宣伝マンになってひんしゅくを買うようなことばかりです。自分の組織・指導者が絶対であると信じ込む、こんなかたちで変造された信は、しかし、元来、信仰のうえで言われる信ではなく、組織・指導者のご都合のために悪用され、信という仏教を盗み取り、人を騙す道具にしているのに過ぎません。これらの人々は信じているのではなく、騙されているという認識こそ必要です。仏教の信と営利宗教の現場で言われる信は言葉は同じでも異質であるという認識に立った議論が望まれます。

「信」は人の言と書きますね。これを仏の言を信じることに置き換えられてきたことに面白さを感じます。「儲」という字は‘信者’とは、藤原氏が『池田大作の素顔』で紹介したことでした。なるほどと思ったものでした。まあ、そちら側に立った人の言ですが紹介内容は可でも、人のものは‘信’には値しませんが。


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