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素朴な疑問
24
:
独歩
:2002/04/13(土) 22:31
一字三礼さん:
> 蓮祖聖人の経典至上主義も天台三大部の前には、鈍るのではなく、別の視点で御覧になっていた…
私も以上のように考えています。
天台宗は当然、天台の釈義を金科玉条に扱うわけですし、さらにそこに本覚論的展開が加わり、さらにことをややこしくしていたわけでしょう。その意味において、聖人は、まず本覚論の排除から、さらに教典の原典主義に戻っていこうとされたのだと私は考えます。
先に少し記しましたが、そもそも三身論にしても真蹟で見る限り、聖人は極めて消極的にしか扱っていないように私は感じてきたのです。そもそも天台宗における三身は応身・釈迦、報身・阿弥陀、法身・毘盧遮那という見解であってそれが一身に具わるという展開です。念仏が天台宗から出た所以、さらに真言宗との親和性は、ここいらからすれば、むしろ当然のことであったろうと思えるわけです。
しかし、それなのに、聖人は阿弥陀も大日も斥け、久遠実成の釈尊ばかりを本尊と規程し直すわけです。この時点で、私は聖人の本尊観はある意味、天台以上に法華経に忠実であったと、私は思うわけです。
そのお考えは先鋭的で、寿量(品)仏と無量寿仏(阿弥陀)と同等性を論じる天台義すら、敢然と排斥していったわけです。
私は聖人の、この肉薄に感動すら覚えるものです。
なお、やや余談ですが、この聖人の姿勢とは別に法華経と浄土教は近隣・兄弟関係にある点は安楽行品の“安楽”がスカバティ(極楽)に充てられた初期の漢訳語であった点から天台の阿弥陀受容もまた致し方のない点であったろうとは思います。
やや余談ですが安楽行品の“安楽”は極楽を意味するスカバティの訳語に使われていることから四安楽行が極楽での修行で語ることは説得性を持つものである気がします。ただし、これは梵本における教学展開ではなく漢訳仏典を基礎とする仏教展開である点は注意を要します。
「スカヴァティー「極楽」の訳語としての定着までの推移」
年 訳語 出典
179 須摩提 『般舟三昧経』
186 須摩提、 須阿提 漢訳
253 須摩題 呉訳
252 “安楽” 魏訳
253 須阿摩提 『慧印三昧経』
269 須摩提 『方仏泥【シ+亘】経』
312 須訶摩提 『菩薩受斎経』
316 須訶摩提 『三曼陀[風友]陀羅菩薩経』
402 極楽 『阿弥陀経』
479 極楽 『如来智印経』
713 極楽 唐訳
1001 極楽 宋訳
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