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素朴な疑問

2148犀角独歩:2005/04/11(月) 14:47:41

本尊と本師が両方出てくる文があります。本尊抄の

「其の本尊の為体、本師の娑婆の上に宝塔空に居し、塔中の妙法蓮華経の左右に釈迦牟尼仏…」

という余りに有名な一節です。ここでは本尊、本師、妙法蓮華経、釈迦牟尼仏が使い分けています。しかし、以前も記しましたが、わたしはこの読み下し、どうも違っていると思うわけです。まあ、それはいまは置きます。
この文章の構成は、大きく本尊を説明するのに、本師、妙法蓮華経、釈迦牟尼仏が使われている関係にあります。本師はイコール釈迦牟尼仏でしょう。さらに妙法蓮華経とその十界聖衆を挙げていきます。そして、妙法蓮華経は一念三千の珠を裏むともいうわけですね。

> 『「妙法蓮華経」の一部八巻の経巻』を師

ここはですね。妙法蓮華経の説法主=教主、が師と考えがちですが、ともかく、釈迦の在世ではなく、末法という時代設定は無仏の時代を意味します。となれば、やはり、おっしゃるように法華経典=師となるのでしょうか。このように考えると、無始に遡れる無限循環は論理的に整合性を持つことになるにはなりますが。

やや、話を進めますが、わたしは梵本直訳を読んで直ちに感じたのは、このテキストでは、法華経によって成仏という形を提供するわけですが、結局のところ、その成仏の要因は菩薩行に尽きているという点です。つまり、法華経とは、どのように菩薩行をするのかというテキストであるということです。ですから、蓮師のように常不軽菩薩、また、地涌菩薩という菩薩の有様を鑑み、その行動規範を心身に当てはめていく上で、妙法蓮華経があるという形は、いわば健全であると思えます。

しかし、密教的な要素というか、妙法蓮華経が宇宙の妙法だとか、リズムだとか、そんなことを言い出すと、いわば、一種のマントラ、もっと悪い言い方をすれば「おまじない」の様相を呈していきます。心身でやっていることなど、どうでもよく、悪いことをやろうが、何しようが「南無妙法蓮華経」と呪文を唱えると、これでオーケー、こんなイージーゴーイングに行き着いた末、ばっさりと忘れ落とされてきたのが菩薩行です。また、菩薩行は、単に教団拡張という折伏の異名と解釈し直されたとき、菩薩はただの勧誘員に成り下がり、菩薩行は潰えてしまったという流れがあると思えるのです。

本尊は何か、師は何か、という問題も重要ですが、その本尊、師を仰ぎ、いったい、何をするのかというほうが、よほど重要な課題であることが忘れ去られています。挙げ句の果てに禅民衆が題目を唱えて戒壇を建立すれば災害が収まり、みんな平和だなどという与太話で人を先導するというのは、まったく蓮師の元意に悖ると断言できます。その意味からも、本門戒壇は考証し直されなければならないとわたしには思えます。


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