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素朴な疑問
2143
:
問答迷人
:2005/04/10(日) 21:56:31
犀角独歩さん
四の可能性は、幾らかは否定しきれない、ということでしょうか。
>一念三千の宝珠を裏むことも挙げられますね。
妙法蓮華経の意味としては、そういうことになるかと思います。ただ、今、僕が疑問としているのは、南無妙法蓮華経というとき、それは、どこまでも「妙法蓮華経」に「南無」する、という意味以外は無いと思いますので、蓮師が無妙法蓮華経と言われる場合の「妙法蓮華経」とは一体何を指して「妙法蓮華経」とされたのであろうか、という疑問なのです。
そうすると、一は経文の書かれている通りの経巻信仰ですから、これが蓮師の大枠の捉え方なのでは無いかと思うわけです。二は、蓮師が遺文の各所に説かれるところですから、一を煎じ詰めたら二になるのだと思います。三は妙法蓮華経が羅什の漢訳本という事情を勘案すれば、当然の帰結で、蓮師もこのお考えで有ったろうと思います。五は真偽未決の三大秘法抄に説かれるところですが、本尊抄の文脈からすれば、蓮師の考えにそんなに外れることは無いのではないかと思います。六は創価学会が好んで用いる表現ですか、蓮師の本意に叶うかどうか、いささか疑問です。これではまるでバラモンの梵我一如の延長のように思います。
結局、突き詰めると、五、辺りが蓮師の本意なのでしょうか。
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