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素朴な疑問

1052犀角独歩:2003/11/30(日) 11:22

ガンコさん:

1046はなかなかの秀作でした。
参考になりました。また、ガンコさんの研鑽姿勢が窺えました。

1048について、「法勝人劣」で区切ってしまっていますが、それでは寛師の説明を途中でやめてしまっていることになるでしょう。ここでの結論は三宝一体を言うものでした。
ただ外相に約せば法勝人劣だということでしょう。内証を簡んで外相で説明をやめてはいけません。

以下、掲示板の
http://nakanihon.net/nb//log/log14.htm
1349 顕正会破折文からの「血脈否定は三宝破壊」 アッド 2001/08/18 20:20
はガンコさん的には参考になるところがあるのではないでしょうか。
もちろん、わたしは、この投稿には一々に疑難を投じるところばかりで、まったく用いるところはありませんが。ただし、浅井親子への破折は現石山義から言えば筋が通っていると思えます。

上述の投稿で興味深いのは、応師が法宝を「一期弘法」としている点でしょうか。これは板漫荼羅とするより正確であるとわたしには思えます。
上記、引用の応師『弁惑観心抄』の該当部分は以下のとおりです。

「日蓮とは仏宝なり一期弘法とは法宝なり本門弘通の大導師とは僧宝なり」(第4章 下種三宝を論ず 第51節 P204)

寛師教学からすれば、板漫荼羅は,
蓮師と恒一(体一)となるわけですから、その線から言えば仏宝に拝されなければならないでしょう。

仏宝 − 日蓮/板漫荼羅
法宝 − 一期弘法
僧宝 − 日興

ところが御影式奉安では仏宝を示せますが、しかし、客殿式奉安では以上のようにすると不整合が生じるわけでしょうね。

わたしは何度も繰り返しています。経典は法ではなく経典です。題目も法ではなく題目です。漫荼羅も法ではなく漫荼羅です。法は法であって、それ以外ではない。ただし、法は見えないし、言語道斷心行處滅です。ですから、凡下に示すに有形に託してしまうわけです。託さないのが智邈師の在り方であるけれど、蓮師は託したと言えると思います。
しかし有形に託してしまえば、そもそもそれは法そのものではないという限界を示した側は知っているわけです。ところが受け取る側は、その有形を法そのものであると思ってしまうわけです。

そんな延長でガンコさんが言うような法勝人劣論が語られるわけです。
これはしかし、以上の次第ですから、二重に取り違えているとわたしは言うわけです。
さてさて、如何に研鑽されるか楽しみです。


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