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素朴な疑問

105犀角独歩:2002/07/22(月) 17:15

五月雨さん:

涅槃の疏に云はく「仏法を壊乱するは、仏法の中の怨なり。慈無くして詐り親しむは、是れ彼が怨なり。能く糾治せん者は、是護法の声聞、真の我が弟子なり。彼が為に悪を除くは、即ち是彼が親なり。能く呵責する者は、是我が弟子。駈遣せざらん者は、仏法の中の怨なり」

とあります。聖人は『立正安国論』に

予(よ)少量たりと雖も忝(かたじけな)くも大乗を学す。蒼蠅驥尾(そうようきび)に附(ふ)して万里を渡り、碧蘿松頭(へきらしょうとう)に懸(か)かりて千尋(せんじん)を延(の)ぶ。弟子、一仏の子と生まれて諸経の王に事(つか)ふ。何ぞ仏法の衰微(すいび)を見て心情の哀惜(あいせき)を起こさざらんや。その上涅槃経に云はく「若し善比丘ありて法を壊(おぶ)る者を見て置いて呵責(かしゃく)し駈遺(くけん)し挙処(こしょ)せずんば、当(まさ)に知るべし、是の人は仏法の中の怨(あだ)なり。若し能(よ)く駈遺し呵責し挙処せば是(これ)我が弟子、真の声聞なり」と。余、善比丘の身たらずと雖も「仏法中怨(ぶっぽうちゅうおん)」の責を遁(のが)れんが為に唯大綱(たいこう)を撮(と)って粗(ほぼ)一端を示す。

と仰せになります。法盗人、食法餓鬼と詐(いつわり)親(したしむ)ことは祖意に反します。もちろん、我々は善比丘ではありません。故に進言を僭越と思われるのであれば、まずは施(供養)を止めることです。

ただ「厳しい」というお言葉もあったので、少し息抜きを申し上げましょうか。
ここのところ、話題にしている小田晋師は『なぜ、人は宗教にすがりたくなるのか』(三笠書房)のなかで、

心理学や精神医学の目的は、人々に不安との“距離”の取り方を教えることなのだ(P30)

と述べています。石山系信徒は、この“距離”感覚が欠落するために無為な精神的な苦痛を生じさせているのですよ。

五月雨さんがいまだ戒壇之曼荼羅、大石寺、あるいは寺院に心残りがあるのであれば、精神的な不快感にならない程度の距離をみつけることです。

そして、登山や法事にはその信徒の地位を利用し、あとは自由に他の寺院に出向いてみたり、ここの掲示板にやってきて、自由意志で仏法に接するという方法です。

石山の世間知らずの僧侶に指導などできるはずもなく、けれど、典礼や法式、塔婆書きはできるのでしょうから、費用を出してやってもらえばいいのです。所詮、理想を望むことが現実とのギャップがある以上、土台無駄なことでしょう。私は、こんな惚けた名ばかりの僧と付き合うことを「時間の無駄」というのです。

ここの掲示板が始まった頃、住職に進言するという意見が大勢を占めたとき、私は「やめたほうがいい」と申し上げたものでした。

しかし、そうは言うものの、実際に議論の現場になったとき、単に見過ごすわけにはいきません。けれど、進言をするときに、怒り、憎悪があっては仏意に背きます。哀れみをもって、僧侶にまでなってなんもわからぬ世間知らずに「お可哀想に」と教えてあげる、そんな境地に、もし立てないのであれば、まずは距離を置いて、自分を修練することが先とすべきでしょう。これは石山僧に対する皮肉でも何でもなく、本当に私は、このように思います。要するに石山僧は「その程度の存在」と現実を見極め、ストレスのない、身のある信仰生活を自力で獲得することです。


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