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素朴な疑問

1041犀角独歩:2003/11/29(土) 12:13

―1040からつづく―

> 波木井実長が神社参詣

これはたしかに三島社の参詣に異義を唱えたと見えるわけですが、これが蓮師の直接の考えであるかどうか一考を要するのは当然のことでしょうね。

> 波木井実長の人物像

身延離山が円師との断絶を意味したかどうかという論点ですが、これは先に空き缶さんも指摘されていましたが、重須に興師が移ったのちも、交流があることが窺われるので、石山・学会のアナウンスは単なる創作物語であるというしかありません。
なによりわたしも指摘したことですが、『白蓮弟子分与申御筆御本尊目録事』に「甲斐国南部六郎入道者 日興第一弟子」と明記されているわけです。縁を切ったかつての弟子檀那には「背了(そむきおわんぬ)と書かれているのにも拘わらず、円師にはその記載が見られません。この目録の執筆は永仁6(1298)年、当の円師はその前年に死去しています。つまり、円師は逝去するまで興師の弟子であったことを物語っています。

> 波木井実長…「釈迦像を造立して本尊にした」

そうですね。わたしは、この点の興師の指摘は、蓮師随身の仏像がなくなったからと言って、新しいものを作っても本物に替えることはできないというのが興師の主張であったと思えます。仏像を興師が否定したわけではなかったでしょう。まして、大石寺には興師持仏堂があったことが漫荼羅への書き込みから窺えるわけで、興師が仏像を持していたのは史実であると思えます。その後、道師のころから漫荼羅本尊正意論が喧しく言われるようになった分析するのが執行師でした。興師は、蓮師在世、身延在住、石山持仏堂において仏像を立てていたことは至極当然の事実であったろうと推します。

> 何故実長の場合には批判される必要があったのか?

そうですね。ですから、仏像を立てることで円師が批判される理由は何一つなかったと思いいます。ただし、繰り返しになりますが、興師は昭師が持ち去って失した仏像の代わりを立てることに嫌悪を懐いたのであろうと思うわけです。

> 日代上人が離脱(追放?)…法華経全品の読誦の是非

全品読誦の是非ではなく、これは方便品の読不の仙師との論争となっていました。
しかし、ご指摘のとおり、代師の排斥は法門上の問題が際だってのことではないように思えます。

> 松戸氏の著書

ドプチェクさんにとっては有効な書であったということですね。

> 御本尊に対する畏敬の念や信仰心までもが次第に薄れつつある…心配

この意識の変遷は、かつてのわたしの経験でもあります。
漫荼羅を「本尊」ととらえたのはたしかに興師その人であったと思います。
しかし、わたしはこれは蓮師の素意とは違うと諸文献から、ほぼ結論づけています。
本尊は確実な真跡資料からすれば釈尊を置いてあるわけもありません。『本尊問答鈔』その他写本資糧から類し蛮勇を起こせば題目本尊の線も考えられると思います。しかし、いずれにしても漫荼羅全体を直ちに本尊とするのは御書から見る限り無理があります。
となれば、蓮師の素意を斟酌して信仰に励もうと思えば、石山・学会から植え込まれた本尊観は次第に薄れるのはむしろ自然なことであると、わたしには思えます。
心配されることではなく、蓮師の素意に基づくかぎり、自然なことです。

> 長年、御本尊を拝むのが基本…

これは正確に記せば、「蓮師漫荼羅を本尊と拝む」ということですね。
蓮師の素意からすれば、かなり特異な考えでありながら、石山・学会で至極当然の“常識”ととらえられている点でした。わたしはこの点に警鐘を鳴らしたわけです。


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