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素朴な疑問

1029アネモネ:2003/11/28(金) 01:56
愚鈍凡夫さん

>女史は「貧しい人」と「心の貧しい人」とは区別されているように思うのです。女史の言う、「心の貧しい人」というのは、「忘れ去られた孤独の中の住人」のことではないでしょうか。または、「心に深い傷を負った人」のことではないでしょうか。

私、大好きな「山上の垂訓」を例に出しましたが、ルカ福音書には次のような一節もあるんですね。


さて、イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた。
「貧しい人々は幸いである、
神の国はあなたがたのものである。」


「貧しい人」と「心貧しい人」は、私の中では、いずれも救いを必要とする人々として同じに捉えていたかもしれません。
ただし貧しい人に、ただ衣食を施せば、それが慈善行為だというものではないのでしょうね。本当に飢えているのは、人の愛だということ…愚鈍凡夫さんは、マザー・テレサの言葉を通して、そのことを感じていらっしゃるのかなと拝察いたします。

古今東西どこの国でもそうですが、貧しい人というのは、社会から差別されている階層の人である場合が多いですね。
イエスの時代、そのような人々に関わってはならない、また触れてもならないと考えられていたと聞きます。言葉を交わすこと、食事を共にすること、家を訪問すること、そのようなことを忌み嫌ったといいます。特に、病気の人や身障者に対する社会的冷遇はそれはひどいものだったといわれています。
しかし、イエスはそのような慣習に反して、率先して差別をされている人々と交わり、言葉を交わし、そして手をとり、そして食事を分け与えて、共に過ごしたといわれています。

話は変わりますが、数日前でしたが、七十代の女性と、五十代の男性が、借金を苦にして、心中を図ったことがテレビで報道されていました。海岸の絶壁から投身自殺を図ろうとしていたところを、通りがかりの警察官の説得によって、一時は思い留まらせられたものの、数日後、2人はその警察官宛に遺書を残して首を吊っていたのが発見されたそうです。
遺書によると、警察官の説得に励まされ、生きることを決意した後、役所に生活保護を求めていったと綴られていました。しかし、思うように手続きもとってもらえないばかりか、心無い言葉を向けられて冷遇され、結局、希望も気力も失ってしまったといったような内容だったといいます。
生活を苦に自殺を考えたものの、人の心に励まされて思い留まることが出来たのに、結局最後は、人の心無い言葉によって、死を選んでしまったわけですね。いろんなことを考えさせられてしまいます。
役所の言い分では、遺書に綴られていたような心無い言葉は発していないとの弁明でしたが、心が飢えている人にとっては、突き刺さるものに感じたものだったのでしょう。

差別は貧しさを招き、そらには、愛に飢えた心の孤独をも招くものですから、恐らく、貧しさ(乏しさ)と心の貧しさとは、裏腹である場合が多いかもしれません。
しかし、実は本当に心の貧しい人というのは、乏しい人ばかりではなく、むしろ富める人であるともいえますね。
これはむしろ、現代の日本の社会が抱えている問題ではないかと思います。確か、マザー・テレサも日本について、そのような指摘をしていたのではなかったでしょうか。
この点を、日本の既存の宗教は、真剣に考える必要があると思います。
ところが、こういってはなんですが、既存の宗教組織が往々にして「心貧しき富める人々」に陥っているとも思われるわけです。
なんとも、これでは救われない。それがそのまま、日本の世相として反映されていると思ってしまうところです。


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