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素朴な疑問

1028アネモネ:2003/11/28(金) 01:54
つぶやきスレッドの>718において、みかんさんは、
>仏教の目的は、滅苦です。
苦を滅するために、開悟(=成仏)することが、仏教の手段です。
四聖諦を見れば分かります。
と書かれておられました。
仏教における手段が、菩提心に始まらなければならないとしても、しかし仏教のその目的が「滅苦」であるならば、開悟(=成仏)を意識しない世俗的な善行も、仏教の目的からまったく外れたことではないのではないかと、私などは考えたいところです。
しかしそれでも、菩提心のあるなしを厳格に区別して論じなければならないならば、そこには「不信の人」と「信の人」の差別と同じような意識が生じるものではないかとも思います。
となれば、仏教とは差別を克服できない宗教ということにもなりはしないでしょうか。

仏教を教説的に厳格に捉えることは、もちろん大切なことです。しかし、その仏教の真の目的が何であるかを考えたとき、あらゆる現実の事物を包括的に捉えていくことも重要なことではないかと考えます。そもそも、仏教は世俗の問題を分けて考えることなのでしょうか。滅すべき苦とは、世俗のなかにあるものなのではないでしょうか。
そうでなければ、仏教思想は現実社会に生かされることのない、ただの観念論に過ぎないのではないかと、私は思ってしまいます。

実際、仏教では、世俗的な善行について、どのように説いているのでしょう。一切関知しない論外として、何も説かれてもいないものなのでしょうか。
膨大なスケールで過去世を論じたり、来世を論じたりと、気の遠くなるほどの経典が存在するにも関わらず、世俗のことになると全く論外となるならば、私などが思うに、「滅苦」の目的など、ただの口先だけ。お題目だけのものに過ぎないと思えてしまいます。
それが仏教なのかどうかもわかりませんが。

いずれにしても、仏教の菩薩が、どのような行いをする人なのか、これではますます私にはわからなくなってしまうわけですが、たとえマザー・テレサに菩薩を見たとしても、教義的に仏教の菩薩には値しないということなら、それはそれでいいのでしょう。
ただし実社会で、人々が、どこに救いを求め、どこで救われるのかという問題となったとき、これでは、仏教よりもキリスト教のほうが、はるかに社会に実践的に生かされた教えであるものと、判断せざるを得なくなると思われます。
こうなるともう、仏教はあまりに難解すぎて、救われる人が限られるという欠点を指摘したくもなります。仏の慈悲と神の愛、どちらが広大無辺なのでしょう。
本当はこのような比較論をここでするつもりはないのですが、思わず、ついつい書いてしまいました。


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