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素朴な疑問

1011アネモネ:2003/11/27(木) 01:24
(つづき)
>経典が過去無量劫から存在していたことを示唆する一節まであります。

なんだか、昔観た、「ネバーエンディングストーリー」という映画のことを思い出します。
私の想像ですが、書き手の術中に嵌るとでもいいますか、不軽菩薩の精神がというよりは、むしろこのミラクルストーリーこそ読み手の心を掴んで信者とならしめているのではないでしょうか。
宗教的な精神の観点からいえば、不軽菩薩の精神こそ強調されなければならないはずなのに、実際の力点はミラクルなところに置かれているわけですね。

>当時の東西文化のなかで勃興していった聖典信仰の影響を法華経創作集団が受けていたからではないのかと、わたしは想像します。

聖典信仰といえば、キリスト教のバイブル、ユダヤ教のトーラー、イスラム教のコーラン、いずれも法華経が創作された中東の信仰観に共通しているものですね。

アメリカでは、大統領や州知事が就任するとき、聖書に手を置いて宣誓がなされている様子が報道によって確認できますが、民衆に対する宣誓を神に誓うという儀式の形が色濃く残っているものなのでしょう。
また、イスラム教ではコーランそのものが特に神聖なものであり、信徒でない人はコーランに決して触れることは許されないといったことも聞きます。
神の言葉が記されたそれらの書物は、神聖なものとして、私たちがいうところの「本尊」のように扱われているといえるかもしれません。
キリスト教もイスラム教も、ユダヤ教から派生したものであり、もともとは神との契約から始まっているともいえるわけで、契約の証が聖典につながって大切にされていったのなのかもしれませんね。

>しかし、元来の仏像・漫荼羅は、たとえばキリスト者が十字架を用いることに、むしろ近いものであると思える向きもあります。

象徴と捉えていいのでしょうね。
キリスト教でもいろいろあるわけですが、かつて私が通ったプロテスタントの教会では、十字架は掲げられていなかったんですね。ですので、かえって聖典信仰の傾倒が非常に強かったと思います。

>わたしが「経典は法ではない」というのも同様の意味からです。
題目の五字に一念三千の意義を籠めるのは是であるにせよ、五字そのものが一念三千であるといえば、いわば偶像化に類似をなすと思えます。

もともとここのスレッドで議論されていた「本尊が何であるか」ということの主題も、ここだったのだろうと思います。

>偶像崇拝というキリスト者側の批判からではなくて、大乗仏教の「空」から見ても、この点は再考されなければならない点であろうと存じます。

言葉足らずの表現になるかもしれませんが、結局、たとえ目に見えない神や仏の存在であっても、それを絶対的な信仰対象としたとき、偶像崇拝というものの範疇、つまり象徴の病というものにうなっていくものだろうとなんとなく思うのです。
偶像崇拝は、何かの像を拝むことを意味するわけですが、目に見えない絶対神の存在も、それが観念的なものである以上、それは人間の頭の中で創造された偶像だと思いますね。ですから、久遠の釈尊や、本仏にしても、観念的存在であるならば、それは偶像といえるでしょう。また、それが経典や聖典という言葉や文字であっても、それが法に代わる象徴であるならば、それは紛れもなく偶像崇拝というるものになってしまうと思いますね。
言葉足らずで、私の意図するところは、非常にわかりにくいかもしれませんが。
観念上の像を信じることはもちろんのこと、言葉や文字や絵や像によって正法を象徴的に据えて信じることも、いずれも結局は偶像崇拝だと思いますね。


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