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素朴な疑問

1010アネモネ:2003/11/27(木) 01:23
(つづき)
>そのような社会的に裕福な人々が仏教信仰に基づいて救済活動をする姿に人々は菩薩を見ていった経過を看取します。

キリスト教が広まった本当の背景には、中世の裕福な階層の人々の存在があったようです。なにせ、「貧しき者は幸いなり」という、貧しい者こそ神の国に行けるのだというイエスの言葉により、富裕層の人々は裕福故に神の国に招かれないのではないのかという不安や恐れがあったわけですね。そうした富裕層の人々が、死後に神の国に行きたいと願いによって信仰に励んでいった背景によって、キリスト教は拡大していったといったことを何かの本で読んだことがあります。そしてその富の一部を神の名において慈善事業に使うようになったともいわれていますが、その点、法華経成立の背景もどこか似ているようにも思われますね。
ただしキリスト教のこの場合は、人を救いたいという無償の愛というよりは、自分が救われたいがためにという我欲からの信仰心なわけですが、しかし、最初はそうであっても、やがて真の博愛に目覚めていった人も多くいただろうと思います。

>では法華経の菩薩はいかばかりかと一瞥するとき、残念ながら法を弘める菩薩の側面ばかりが見えるわけです。わたしは敢えてこの点を欠陥と認めることにします。そして、この欠陥を積極的に補完する方途を法華信奉者はいまこそ真剣に考えるべきであると主張するわけです。

なるほど。ということは、法華経では、不軽菩薩の精神は説かれてはいるものの、全編にわたって主題としての強調はみられないということなのでしょうか。

>「…『法華経』のこの態度は日蓮に見られ、さらにその流れを汲む宗教団体に受けつがれていることは、よく知られていることである」(『佛教入門』中公新書 P167)

結局この掲示板で私は、宗門や教団批判をしてきましたが、そのルーツを遡れば、結局は、法華経にたどりついてしまうということになるわけですね。
こうなると、やはり経典に対する絶対信仰を考え直してみなければならないでしょうね。

>譬喩品をはじめ、そこに書き連ねられる脅しの言説は、実に見苦しく、そして、差別的です。この差別は、岩本師が言うように被差別側であった怨恨から生じたものである可能性もあるでしょう。

やはり、法華経信奉者は、どうしてもここを克服しなければならないでしょうね。そのためには、どうしても経典信仰の限界を考えることではないでしょうか。
法華経=正法という錯覚が今日的にもあることが否めないとするならば、そこから紐解いていかなければならないでしょうね。

>怨恨から不軽への精神的向上の流れをそこに看取できるわけです。この昇華はしかし、高く評価されるべきですね。

怨恨と不軽は、相反する心のように思われます。しかしそこは、法華経全編を通して昇華と読み取ることが、創作者の意図するメッセージであるといえるのでしょうか。
ややこしい質問ですみません。

>妙法華で「法華経」という語彙を検索したところ、実に97回も出てくるわけです。

これは、奇怪というか奇妙というか、他のお経はもちろんのこと、一般的な本としても、とても特異なことですね。


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