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素朴な疑問

1009アネモネ:2003/11/27(木) 01:18
犀角独歩さん

>そもそもシャキャムニはサンガの蓄財そのものを禁止していました。

キリスト教においても、イエスは自分の弟子になる者に対して、自分の財産を貧しい人々に施してから弟子になるようにと戒めていたようです。

私の想像ですが、蓄財とは、あくまで自分の為の行為だと思われますね。しかし、いわゆる義に生きる道を選ぶとき、それが菩薩道であるならば、他に尽くす(利する)為に、自分を捨てる(自己犠牲)から始めなければならないものなのでしょう。
菩薩の道で、蓄財を禁止することは、基本中の基本なのかもしれませんね。

>元来、サンガは法の修行場であったからでしょう。

またまた、素朴な疑問ですが、法の修行とは、何のために行うことなのでしょう。
ちょっとこれまた舌足らずな変な質問かもしれません。
具体的にいえば、修行とは、自分の為の行なのでしょうか、それとも他者の為の行なのでしょうか。もしくは、他者の為の自分…となる為の行なのでしょうか。

>仏に成り代わり衆生済度のために使えば仏使・菩薩の行となるのでしょう。

本当にそう思います。
くどいようですが、菩薩行が何であるかの次に、衆生済度とは何であるかということも問題となりますね。
法華講でいわれていたことは、正確な言い回しではないかもしれませんが、仏法を持たせることだといわれていましたし、そしてそれが本尊を持つことということでもありました。しかし今にして思えば、それはどうも仏法の解釈に飛躍があるんじゃないかと、素朴に思うわけです。
折伏の名を借りた組織勧誘は、弘法という菩薩行に解釈されていること、これが法の歪曲であるならば、ことは深刻だと思いますね。

>大乗といいながら、集団・指導者・自分たちの本尊を信じなければ救えないのであれば、それは自分たちが小乗と貶称する教義より、さらに劣った乗り物に過ぎません。

やはり、本尊という概念そのものこそ、カルト問題で指摘される「象徴の病」という落とし穴に思えますね。これも、かつて独歩さんに教えて頂いた言葉ですね。
しかし、そもそもお釈迦さまの直説では、本尊というものは、どのように説かれていたのでしょう。恐らく、本尊という語彙は使われていなかったと思われますが、それこそ自灯明、法灯明ということでしょうか。
キリスト教では、やはり天地創造の全知全能の絶対神が、本尊ということになるのでしょう。これも、まったく観念的な世界のいわば象徴の病ではないかと、元クリスチャンの私も、今ではそう思っております。

>不信の救済こそ、真の大乗であるということもまた、わたしが主張してきたことでした。

独歩さんに、まさにご自身の体験を通して教えて頂いたことでした。
不信の救済。私も宗教に関わった者のひとりとして、このことを考え続けていきたいと思います。

不軽菩薩は、法華経不信の人にも礼拝されたのでしょうか。そうだとしたら、この経文からは、そこを読み取ることが肝要なのかもしれませんね。
マザー・テレサは、キリスト教を信じないインドの最下層の人々を救済しようとしたわけですが、そこが、イエスの山上の垂訓にかなった実践的行いといえるのだろうと思います。

>浅見定雄師が「何を信じているかではなく、何をしているかで集団の真価が問われる」と仰ったのはこの点です。

自分の信仰する教団が、実際に何をしているのかということを見ようとし、そのことを考えてみようとするということは、正法とは何か、成仏とは何か、菩薩道とは何か…といったことを考え直してみることに通じるものだと思われますね。


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