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素朴な疑問
1008
:
アネモネ
:2003/11/27(木) 01:17
愚鈍凡夫さん
レス、大変勉強になります。ありがとうございます。
>仏法を拠り所として、衆生を悟りの道に入らしむる人を菩薩というと言えるでしょうか。
やはり、そういうことなんですね。
私は、図書館である本に菩薩について書かれていたわずか一行の説明に目が釘付けになりました。それは、「自分の成仏を捨てて衆生の済度に生きる」一字一句正確というわけではありませんが、そんなような言葉だったと思います。
私はこのわずか一行に、ジーンとてしまいました。
キリスト教が説く神の愛は、報われることを一切期待しない「無償の愛」だといわれ、イエスの生涯にもなぞらえ、自己犠牲の精神が伴うことを意味しているといわれます。
愛することに報いを期待した時点で、それは本当の愛ではないとなってしまうといえるでしょう。
菩薩が、自分の成仏を捨てても衆生を救わんとする心は、まさにキリスト教が説いた無償の愛と同じ精神性だと私は感じます。
しかし、頭ではわかっていても、その実践となると、ぜんぜん駄目です。
どうしても、報われる愛を求めてしまうものです。
ですから、信仰という場の修行も実践も供養も弘法も、全て自分が報われるためにしてしまうと、それは本当の意味での菩薩道にはならなくなるのではないかと思うころです。
>「人は一切れのパンではなく 愛に、小さなほほえみに 飢えているのです。
だれからも受け入れられず だれからも愛されず 必要とされないという悲しみ
これこそがほんとうの飢えなのです。
愛を与え 愛を受けることを知らない人は 貧しい人のなかでも もっとも貧しい人です。」
涙が出てしまう言葉ですね。
>「不軽菩薩は人々の中に「仏性」を観じ、それを礼拝した。マザー・テレサは人々の心の中に飢餓を観じ、それを救済したいとの思いに駆られた。ということでしょうか。
イエスの山上の垂訓はご存知でしょうか。
その冒頭には、「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。」という一説が語られています。
きっとマザー・テレサも不軽菩薩と同じように、心の貧しい人の中に神やイエスを見、そして神やイエスに仕える気持ちで貧しい人々に接していらしたものと思われますね。
>結局、「助けを必要とする人」の手助けをする行為全般が、菩薩行と言えるのではないでしょうか。
そうなんでしょうね。他を利するとは、人に尽くすことであり、それが喜びと感じられるとき、それが菩薩行となっているのではないのかなあと思います。
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