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素朴な疑問

1004犀角独歩:2003/11/26(水) 16:28

アネモネさん

> 素朴に投稿できる掲示板は、やはり貴重な存在

同感です。その意味でも、この掲示板を用意される管理人・問答名人さんに改めて敬意を表します。

> 菩薩道の随喜

菩薩が随喜するという意味で、わたしは記したわけではありません。
菩薩は随喜させる側であって、その心中が随喜、あるいは感動に満ちているかといえば、必ずしもそうではないと思います。しかしこれは本題とずれますから、いまは記しません。

> 組織に対してご供養や財務…仏法に対する供養・布施行とされてしまっています

そうですね。わたしが3年間言い続けてきたことの一つです。

> 集めた資金を広く衆生に対して施すことをしなければならない

わたしが法華講に入ったばかりの時、本山役僧でもある住職は「供養は元来、個人が仏様に対してするものであって、集団が行うべきものではない」と言っていました。もっともな意見であると思いました。しかし、直ぐに反故になりました。
そもそもシャキャムニはサンガの蓄財そのものを禁止していました。
元来、サンガは法の修行場であったからでしょう。
その後、100年にして、この戒律はその後、大乗教団と発展していくと目される側で破られ、現在に至っています。いまとなって教団の蓄財を咎めたところで意味もなしません。しかし、アネモネさんが仰るように、襟度があるべきであるとわたしも思います。
何のために金銭を集めるのか、単に集団・指導者・構成員のためであれば、ただの商売です。名誉勲章のためであれば名聞名利です。仏に成り代わり衆生済度のために使えば仏使・菩薩の行となるのでしょう。

> 施すべき衆生とは、救いを求める「不信の人」ですね。
> それをしなければ、救いを求めて布施行を託した「信の人」
> も救われないものでしょう。

まったくこの意見には賛同します。
「不信の救済」、布施の意味と併せ、わたしが申し述べてきたをこのように総括いただいたことを嬉しく存じます。
大乗といいながら、集団・指導者・自分たちの本尊を信じなければ救えないのであれば、それは自分たちが小乗と貶称する教義より、さらに劣った乗り物に過ぎません。
不信の救済こそ、真の大乗であるということもまた、わたしが主張してきたことでした。


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