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六巻抄について

169管理者:2005/02/13(日) 12:48:20

1958 名前: 愚鈍凡夫 投稿日: 2005/02/10(木) 16:33:57

>>1957:からのつづき

末法相応抄には、もっと不思議なことが書かれています。
観心本尊抄の文証の解釈ですが、
「其の本尊の為体、本師の娑婆の上に宝塔空に居し、塔中の妙法蓮華経の左右に釈迦牟尼仏・多宝仏、釈尊の脇士は上行等の四菩薩、文殊弥勒等の四菩薩は眷属として末座に居し、迹化・他方の大小の諸菩薩は万民の大地に処して雲閣月郷を見るが如し。十方の諸仏は大地の上に処したもう。迹仏迹土を表する故也。是の如き本尊は在世五十余年に之無し。八年之間、但、八品に限る。正像二千年之間、小乗の釈尊は迦葉・阿難を脇士と為し、権大乗竝びに涅槃・法華経の迹門等の釈尊は文殊・普賢等を以て脇士と為す。此れ等の仏を正像に造り画けども未だ寿量の仏有さず。末法に来入して始めて此の仏像出現せしむべきか。」(「観心本尊抄」昭定P712)
この文証を引用して、
「問ふ又云く本尊抄八に云く其本尊の体たらく本時の娑婆の上に宝塔空に居し塔中の妙法蓮華経の左右には釈迦牟尼仏多宝仏釈尊の脇士には上行等の四菩薩、乃至正像に未だ寿量品の仏有さず、末法に来入して始て此仏像出現せしむべきか云云、此仏像の言は釈迦多宝を作る可しと云う事分明なり云云、此の義如何、答ふ其の本尊の体たらく等とは正しく事の一念三千の本尊の体たらくを釈するなり、故に是れ一幅の大曼荼羅即法の本尊なり、而も此法本尊の全体を以て即寿量品の仏と名け亦此仏像と云うなり、寿量品の仏とは即是文底下種の本仏久遠元初の自受用身なり、既に是自受用身の故に亦仏像と云うなり、自受用身とは即是蓮祖聖人の故に出現と云ふなり、故に山家大師秘密荘厳論に云く、一念三千即自受用身、自受用身者出尊形仏云云、全く此釈の意なり之れを思ひ見る可し、又仏像の言未だ必しも木絵に限らず亦生身を以って仏像と名るなり、」(富要3-160)
と、論理展開していきます。
何故、「此れ等の仏を正像に造り画けども未だ寿量の仏有さず」との文証を、「正像に未だ寿量品の仏有さず」と「造り画けども」の文を省いたのでしょうか。法主の一人であっても、宗祖の御遺文の一節を都合に合わせて改変してよいものなのでしょうか? 疑問に思います。
不思議なことはまだあります。
「此法本尊の全体を以て即寿量品の仏と名け亦此仏像と云うなり」何故、寿量品の仏が仏像なんでしょう。それに、「既に是自受用身の故に亦仏像と云うなり」何故、自受用身であれば仏像なんでしょう。そして、極めつけが、「又仏像の言未だ必しも木絵に限らず亦生身を以って仏像と名るなり、」との一節です。何故「生身を以て仏像」と名乗るんでしょう。生身の蓮祖は仏像なのでしょうか?
この疑問について、本文では明らかにされません。
ただ、「即文句第九の如し、若し必ず木絵と言はば出現の言恐らくは便ならず、前後の文本化出現云云。之を思ひ合す可し云云。」
とあるだけです。
また、山家大師(伝教大師)の秘密荘厳論と観心本尊抄との関係について説明されていません。「一念三千即自受用身」、「自受用身者出尊形仏」と、秘密荘厳論の都合のいい文証を引用しているだけです。

小生は、こういった日寛師を信頼できません。説明すべきところで説明せず、理論をどんどん先に進めていきます。結局は、「戒壇之本尊」と称する板漫荼羅に結論づけるわけですが、蓮祖を敬愛しているようで、その実、自宗の板漫荼羅を宣揚するために、蓮祖を利用しているだけに思えてなりません。
その意味で、

> 江戸時代に日寛という矛盾に満ちた不可思議な理論を展開する人物によって、「日蓮本仏論」を前面に押し出し、辻褄合わせが完成を見たのではないですか。

と申しました。
管理人さん、長々と駄文を投稿してしまいました。お許し下さい。 m(_ _)m


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