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六巻抄について

152顕正居士:2002/04/14(日) 21:51
dhatu-vada批判

は道元の寂後、臨剤的に解釈され来たった曹洞宗と近代の西田、田辺哲学への批判
として理解できますが。中観、唯識に次いで大乗仏教の第3の流派である如来蔵思想
が仏教でないと云うのは、中観と唯識は仏教である意味であるし、大乗仏教でないで
なく仏教でないだから、部派仏教は仏教であり、如来蔵思想だけが変わり者の意味で
あろう。しかし。如来蔵思想に発達する原始的の表現は上代からあるし、如来蔵思想
の元祖は世親であるのだから、標語そのものが理解が困難である。

「“dha ̄tu-va ̄da”とは、現象的なあれこれの存在は、「無常」であり、「無我」で
あるが、それらを生み出す原因となる基体(dha ̄tu 場)それ自体は、「常」であり、
「我」であり、実在であると説くものである。」

「場」と注記するから、西田、田辺などの「場の哲学」への批判であると思うのだが。
現象と本体にわけなければいかなる教説も生じない。十二支縁起の支分を本体と
し、現象の苦、空、無常、無我が説かれる。「基体(dha ̄tu 場)」を本体とする説を
批判し、臨剤、西田、田辺等であるが、チベットにも類似した思想がある意味では
なかろうか。


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