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六巻抄について
151
:
顕正居士
:2002/04/13(土) 19:56
松本史朗師の教説は
「如来蔵思想は仏教でない」として知られています。如来蔵思想は禅のルーツであると
されるから、師が云いたいことが禅は仏教でない意味か、ほんものの禅は如来蔵想を
ルーツとしない意味かまずわからない。
Dhatu-vadaというのは『究竟一乗宝性論』の冒頭の偈を、仏性が先ず在り、三宝は之
より自然に生じると師は解釈する。三宝が自然に生じるのは仏教を一貫する修道論と
異なる意義であろう。しかし三宝が自然に先在すると主張する訳でなかろう。三宝には
因があらねばならない。月称は『入中論』で菩提心、大悲心等を因として菩薩が生じ、
而して菩薩より仏が生じると述べる。界といい、因といい、ほぼ同じことである。三宝の
自然存在を主張するのでないなら、師のDhatu-vada批判は何のことかわかり難い。
Libraさんの引いた「“dha ̄tu-va ̄da”とは」以下はそう定義している意味では理解は
できfるが、本体と現象にわけなければいかなる説明も不可能だから、反知性主義を
述べているのでないなら、何のことかやはりわからない。
> 不覚が本、覚は迹、色が本、心は迹。
『諸法実相抄』の「凡夫本、仏迹」のことであります。仏凡一体は心法妙においてのみ
感得しあたうと解釈し来たったから、凡夫(不覚)が本、仏(覚)が迹なら、色本心迹に
なります。「不覚が本、覚は迹、色が本、心は迹」は小生の要約ですが、字句が似た
文章は古典にあるのかも知れません。田村芳朗先生は晩年、天台本覚論の以後に
展開する反本地垂迹思想の研究を志ざされておられたのですが。(感懐省略)。
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