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従軍慰安婦についてpart.2

599指環 </b><font color=#FF0000>(wUDH2Y5M)</font><b>:2004/06/16(水) 20:43
 加害者側(旧軍人)の証言を少し紹介します。

(44年アンボン島の話として)慰安婦体験者、売春婦、売春のうわさがある者、志
願者を対象にしてリストをつくり、本人交渉するが、「ある程度の強制はやむをえな
い」ということになった。治安維持を任務とする特別警察隊が全面にでるのはまずい
ので協力にとどめ、副官が中心となり、政務隊(民政警察)が集めることになった。
その指導にあたった司政官からこの将校が聞いた話によれば、サパロワ島でリストに
のった女性を強引に舟に乗せたところ、住民がぞくぞくと港に集まって、「娘を返せ!
娘を返せ!」と叫んだという(禾晴道『海軍特別警察隊』)

海軍第25特別根拠地隊司令部付主計将校だった坂部康正の回想によれば、アンボン
島で日本人慰安婦を帰したあと、司令部の参謀が4つの慰安所開設し、約100名の
慰安婦を「現地調達」する案をつくったという。それは「日本軍将兵と姦を通じたる
ものは厳罰に処する」という布告をだし、「密告を奨励し」、「原住民警察官を使っ
て日本将兵とよい仲になっているもの」を収容し、その中から美人で性病にかかって
ない者を選んで、慰安婦とするというものだった(海軍経理学校補修学生第10期文
集刊行委員会編『滄溟』)。彼は「クラブで泣き叫ぶインドネシヤの若い女性の声を
何度か聞いて暗い気持ちになったものだ」と述べている。

↑以上は吉見義明「従軍慰安婦」(岩波新書)からの引用です。

「ところが慰安所へ着いてみると、彼女らが想像もしていなかった激務が待ち受けて
いた。昨年の一二月初めに仏印を発ってより、三ヵ月近くも溜りに溜った日本軍の兵
士が、一度にどっと押し寄せてきたからである。・・・(中略)・・・英軍時代には
一晩に一人ぐらいを相手にして自分も楽しんでいたらしい女性たちは、すっかり予想
が狂って悲鳴を上げてしまった。四、五人すますと、
 『もうだめです。体が続かない』
と前を押さえしゃがみ込んでしまった。それで係りの兵が『今日はこれまで』と仕切
ろうとしたら、待っていた兵士たちが騒然と猛り立ち、殴り殺されそうな情勢になっ
てしまった。恐れをなした係りの兵は、止むを得ず女性の手足を寝台に縛り付け、
 『さあどうぞ』
と戸を開けたという。」
総山孝雄「南海のあけぼの」叢文社(1983年)(「私は『慰安婦』でない」東方出版
からの再引用)

『私の相手になったのは23,4歳の女だった。日本語は上手かった。公学校で先生を
していたと言った。「学校の先生がどうしてこんなところにやってきたのか」と聞く
と、彼女は本当に口惜しそうにこういった。「私たちはだまされたのです。東京の軍
需工場へ行くという話しで募集がありました。私は東京に行ってみたかったので、応
募しました。仁川沖に泊まっていた船に乗り込んだところ、東京に行かず南へ南へと
やってきて、着いたところはシンガポールでした。そこで半分くらいがおろされて、
私たちはビルマに連れて来られたのです。歩いて帰るわけに行かず逃げることもでき
ません。私たちはあきらめています。ただ、可哀そうなのは何も知らない娘達です。
16,7の娘が8人にいます。この商売は嫌だと泣いています。助ける方法はありませんか」』
小俣行雄著「戦場と記者」

「騙すのは、看護婦にする、というのと、食堂の給仕にする、というのとつまり肉体
的供与を条件とせず連れて行って、現場に着いたら因果を含めたものである。逃げる
方法はない。」
伊藤桂一著「戦旅の手帳」(光人社)

↑最後の二つはミルクカフェさんの↓下記サイトからのコピペです。なお、このサイト
には、これ以外にも加害者側の証言が集められていますので、一見の価値があります。

http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Gaien/1794/ianfu.html




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