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日興上人の身延離山について
1
:
空き缶
:2003/11/29(土) 01:14
日興上人身延離山というと、大石寺系は必ず「波木井謗法説」を出してきます。しかし、日興上人の真筆が現存する「本尊分与帳」(北山本門寺蔵)では
「一、甲斐國南部六郎入道者日興第一弟子也。仍所申与如件。」
とあります。
「甲斐國南部六郎入道」とは、波木井実長日円を指すと考えるのが通説です。そして日興上人は、この「甲斐國南部六郎入道」を高弟の日目上人等と同様に「日興第一弟子也」と申されているのです。
この本尊分与帳では、弟子としての道をまっとうできなかった者には、「背きおわんぬ」等と付け加えられています。そして、この本尊分与帳は波木井実長の死後に書かれたものであるため、「甲斐國南部六郎入道」が、通説通り波木井実長日円であるならば、波木井実長は最後まで「日興上人の弟子の道」を全うされたことになります。
ROCKさん、皆さん、ご助言をお願いします。
27
:
ROCK
:2003/12/12(金) 20:53
空き缶さん、こんばんは。
>保田の重宝なので、チョッと無理なのではと思われます。
私は保田のことはそれほど知らないのですが、本堂に安置されている本尊は
何でしょうか。私はその本尊を中心にやっていけばよいと思いますし、御影
を本尊視する必要は特にないと思います。
>「門徒存知事」はどうなんでしょう?
私自身、納得のいく答えを見つけ出せないでいます。確かに日興上人の思想と
認めがたい点があることも事実ですが、それを以って「富士一跡門徒存知事」を
全否定するつもりはないのです。仮令「富士一跡門徒存知事」が後代の日興門下
による著述であったとしても、その内容すべてを否定できないでしょう。日興上
人の他の著述と校合し、とるべき所はとり、否定すべきところは否定すべき、と
いうのが現時における私のスタンスです。
28
:
空き缶
:2003/12/12(金) 23:59
ROCKさん、こんばんわ。お忙しい中、御返事ありがとうございます。
妙本寺は「御堂」と「客殿」がありますが、どちらを本堂と称するかはその時々によって変わっていたようです。
客殿の御本尊は、私の記憶では興尊書写本尊を板に彫刻したものです。しかし、人によっては「あれは郷師書写本尊の板本尊だ」という人もいます。
私はそれを聞いたとき、自分は郷師と興尊の御本尊の違いもわからないのかと、情けなくなった記憶があります。
私は日曜日の正午からの、御影の御開扉を中心に御参りしていました。客殿にはあまり足をむけませんでした。
普通は御影の背面に曼荼羅本尊が懸けられていると思いますが、妙本寺の御堂は、御影のみです。御影に向かって方便品(諸法実相まで)と寿量品を読み、お題目を唱えます。
その後、約15分から30分ぐらいの住職の話があり、御閉扉します。御閉扉後はすぐ鍵を閉め厳重に扱います。
それに対し、客殿はほとんど御開扉しっぱなしで、客殿内に誰もいなくても開けっ放しの時さえあります。
これを考えると、やはり御影の方を重宝しているように思えます。
29
:
直人
:2004/01/10(土) 00:11
[「日興上人御遺跡事」と弘安五年御下文(「日興跡條條事」)]
私はさきに(
>>8
)「「弘安五年の御下文」は身延離山後に偽作された文書(中略)
「日興上人御遺跡事」も疑っています」と述べた。しかし、「日興上人御遺跡事」は
真筆とすることはできるかもしれない。私の考えは次のごとくである。
「日興上人大石寺御置文」には「日興跡條條事」の第一条にあたる文が見られる
が、第二条にあたる文は見られなく、第三条にあたる文は「異本に云く」として見ら
れるのである。この「日興上人大石寺御置文」が引用されたのは日有文書である
から、宗祖滅後200年代にはまだ「日興跡條條事」は成立していなかったようである。
「日興跡條條事」は宗祖滅後279年にいたって「祖師伝」に引用されたわけである
から、「日興跡條條事」の成立時期は宗祖滅後200年代以降、宗祖滅後279年ま
での間となる。
「弘安二年の大御本尊並御下文」(『日蓮正宗聖典』38年版)については日行師
以降の大石寺僧によって造立された板曼荼羅を以って「弘安二年の大御本尊」と
し、「日興跡條條事」の第二条が偽作されたものであろう。その際に偽作者が「日
興上人御遺跡事」の「日蓮聖人御影並びに御下文、園城寺申状」という文によって
「弘安二年の大御本尊並御下文」としたものかもしれない。
しかして、富士正統思想と御下文が何時しか一対になり「朕、他日法華を持たば必
ず富士山麓に求めん」という誤伝が生じたものではなかろうか。
上代において御下文はあったかもしれないが、真実、「朕、他日法華を持たば必ず
富士山麓に求めん」と記されていたとは考えられない。それは弘安五年の時点では
富士に日蓮宗寺院は存在していなかったからである。
30
:
空き缶
:2004/01/10(土) 00:28
直人さん、こんばんわ。いつも大変勉強になります。
継命新聞社版「日目上人」によりますと、「日興上人御遺蹟事」の筆跡は「日善師」ではないかとの事です。
正本は現在二本伝わっており、「日善・日仙・日目」の花押を押した三師がそれぞれ一本ずつ所持したものが、一本は紛失し現在二本が残っているのではないかとしていました。
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