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日本国憲法とは何か
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凡人
:2012/12/08(土) 03:00:30 ID:gVXxwDdM0
日本を戦前に戻そうとする勢力が、
日中韓の小さな島を巡る領土問題が拡大する中、
勢いづいている。
とうとう日本国憲法の廃棄が公然と政治家によって叫ばれる昨今。
日本国憲法の存在意義とは何か。
日本国憲法の行方や諸問題とは何か。
それを探るために、気になるニュース記事を掲載。
2
:
凡人
:2012/12/08(土) 03:02:16 ID:gVXxwDdM0
公務員の「政治活動」拡大 赤旗配布で最高裁初判断
2012年12月7日(金) PM 09:29
休日に政党機関紙「赤旗」を配布した国家公務員2人の行為が、法が刑罰の対象として禁じた「政治活動」に当たるかどうかが争われた事件の上告審判決で、最高裁第2小法廷(千葉勝美裁判長)は7日、「禁じられる行為は政治的中立性を損なう恐れが実質的に認められるものに限る」との初判断をした。公務員の政治活動の範囲を大きく広げる判決。
「実質的」をどう判断するかについては、公務員の地位や職務内容などを総合的に考慮すべきだ、と指摘した。国家公務員法の禁止規定について、最高裁の解釈が示されるのは初めてで、表現の自由から導かれる政治活動の自由を尊重する内容といえる。
赤旗配布事件の上告審判決で上告が棄却されて無罪が確定し、支援者(右)と笑顔で握手する元社会保険庁職員の堀越明男さん。左は有罪が確定し厳しい表情を見せる元厚労省課長補佐の宇治橋真一さん=7日午後、最高裁前
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凡人
:2015/06/13(土) 09:42:27 ID:da95RwFo0
【即興政治論】
日本国憲法の「男女平等」を起草した ベアテ・シロタ・ゴードンさん Q憲法にどんな思いを込めましたか?
2007年5月1日東京中日
日本国憲法の「男女平等」を起草した ベアテ・シロタ・ゴードンさん=写真
3日で施行60年を迎える日本国憲法。日本女性の地位向上の願いを込めて男女平等条項を起草したのは、GHQ民政局のベアテ・シロタ・ゴードンさんでした。記者が以前、自宅を訪ねて行ったインタビュー内容を、歴史の貴重な証言として紹介するとともに、施行60年にあたってのメッセージを寄せてもらいました。 記者・豊田洋一
地位向上願い 権利を女性に
豊田 なぜ憲法草案起草にかかわることになったのですか。
ベアテ 私は一九四六年の一月から、連合国軍総司令部(GHQ)民政局行政部の政党課でリサーチャーとして日本女性の政治運動や小政党を調査していました。二月四日、民政局長のホイットニー准将が私たち局員を呼んで「マッカーサー元帥から憲法草案をつくるよう命令がありました」と伝えたのです。当時、政党課にはロウスト中佐、ワイルズ博士と私の三人がいて、行政部長のケーディス大佐は私たち三人に「人権のことを書きなさい」と割り振りました。草案は一週間でつくらなければなりません。三人で分担することにして、ほかの二人が私に「あなたは女性だから、女性の権利を書けばいいのではないですか」と言ったのです。
豊田 どんな気持ちで引き受けましたか。
ベアテ 憲法草案を書くなんて思っていなかったから、最初はびっくりしましたが、女性の権利を書くことになり、すごく喜びました。私は五歳半から十五歳半まで日本にいて、当時の日本女性には権利が全然なく、その苦労を詳しく知っていましたから、女性にもいろんな権利を与えたいという気持ちで草案づくりを始めました。憲法の専門家でない私は、いろんな国の憲法を参考にしようと、ジープに乗って東京の図書館を回り、本を借りてきました。草案づくりは極秘で、一カ所だけ行くとよくないと思い、三カ所で十か十一の憲法を見つけ出して事務所に戻ったのです。
豊田 草案づくりでは、どんなことを重視しましたか。
ベアテ 集めてきたスカンディナビアや、ワイマール、ソ連の憲法には女性の基本的な権利だけでなく、社会福祉の権利もちゃんと書いてあったので、憲法にこれを入れたいと思いました。民法を書くのは、官僚的な日本男性ですから、憲法にちゃんと入れないと、民法にも入らないと思ったんです。民法を書く人が縮められないよう草案に詳しく書きました。
豊田 そのまま草案になったのですか。
ベアテ ケーディスは「ベアテさんは日本女性のために、米国憲法以上の自由を書きましたね」と言ってくれましたが、「基本的な男女平等はいいが、社会福祉は憲法には合わない。そういうものは、民法に書かなければいけない」と認めてくれません。私、泣いちゃったんですよ。反論したんですが、まだ二十二歳の私には大佐ほどの力はなく、戦ってもどうにもならない。不満でしたが、基本的権利にとどめることを了承しました。
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凡人
:2015/06/13(土) 09:43:10 ID:da95RwFo0
豊田 日本側はGHQの草案をすんなり受け入れたのですか。
ベアテ 日本政府には「これを基本に日本の憲法をつくってください」と草案が渡されていました。一カ月後、日本政府代表者とGHQとの会議があり、私は通訳として呼ばれました。会議は午前十時から始まり、すぐに私たちの草案を議論しているんじゃないことが分かりました。日本側は全く違う憲法案をつくってきたのです。ですから、日本側の案を英訳したり、ケーディスの返事を日本語に訳したり、議論があっちこっちに飛んで進みません。そうしたら、(当時外相だった吉田茂元首相の側近)白洲次郎さんが、書類をテーブルに置いて、どこかに行ってしまいました。それは私たちの草案の日本語訳でした。ケーディスは、この草案をベースにしようと言い、それ以降、議論が少し楽になりました。
豊田 その後、議論は順調に進みましたか。
ベアテ それでも天皇制は、ずいぶん時間がかかりました。日本側は天皇の権限を強くしたかったし、私たちは弱くしたかった。四、五時間はその議論だけでした。でも、私たちは部屋から出られません。陸軍から出された缶詰をそこで食べて、議論を続けました。
豊田 ベアテさんの男女平等はどうでしたか。
ベアテ 翌日の午前二時ごろ、男女平等の条項が(議題に)出てきました。日本側は最初「これは日本の歴史、文化に合わない。憲法には入れられない」と言ったので、激しい議論になりそうでした。でも、ケーディスはこう言ったんです。「女性の権利はシロタさんが書きました。通しましょう」。日本側はそれを聞いてびっくりしたと思いますが、私は通訳が早く、日本側からも信頼されていたので、日本側も最後には男女平等を受け入れてくれました。
豊田 九条の戦争放棄規定は問題にならなかったのですか。
ベアテ それはマッカーサーが「入れなければならない」と、最初から命令していたので、日本政府代表者との協議では全然、議論にならなかったと思います。ただ、ケーディスは亡くなる前、私に「九条の最初の草案には、侵略戦争だけでなく、自衛戦争もやってはいけないと書いてあったが、自分が消した」と言っていました。彼は、どの国でも自衛権はあると思っていたんです。戦争放棄条項はマッカーサーかホイットニーか、誰が書いたのかは分かりません。でもケーディスが自衛戦争の放棄を消したことは確かです。
◇
このインタビューは二〇〇四年四月二十日、ニューヨーク・マンハッタンのベアテさんの自宅で行われました。
◇
1923年、ウィーン生まれ。29年、作曲家・山田耕筰の招きで東京音楽学校(現・東京芸大)に赴任したピアニストの父、母とともに来日。少女時代を東京・乃木坂で過ごす。39年、米留学。卒業後、米タイム誌リサーチャーなどを経て、45年、GHQ民政局スタッフとして再来日。日本国憲法の人権条項起草にかかわる。著書に「1945年のクリスマス」(柏書房)など。ニューヨーク在住。
http://www.tokyo-np.co.jp/hold/2008/sokkyo/news/200705/CK2007050102019250.html
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凡人
:2015/06/13(土) 09:50:36 ID:da95RwFo0
ベアテ・ゴードン氏が死去 憲法の男女平等条項起草
2013/1/2 21:17 日経
【ニューヨーク=共同】第2次大戦後、連合国軍総司令部(GHQ)民政局のスタッフとして日本国憲法の起草作業に携わり、男女平等に関する条項を書き上げた米国人女性ベアテ・シロタ・ゴードンさんが昨年12月30日、膵臓(すいぞう)がんのためニューヨークの自宅で死去した。89歳だった。追悼式は後日行われる。
国際的ピアニストだった父のレオ・シロタ氏が東京音楽学校(現東京芸大)教授に招かれたため、両親と共に1929年来日し、約10年間滞在。その後、渡米して米国の大学を卒業した。
第2次大戦後の45年末に再来日。GHQ民政局のスタッフとして22歳の若さで憲法起草作業に従事し、24条(両性の平等)など人権に関する条項を書き上げる一方、案文をめぐる日本政府との折衝で通訳も務めた。
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ベアテ・ゴードンさん死去 日本国憲法の男女平等条項起草
2013/01/01 13:04 【共同通信】
死去したベアテ・シロタ・ゴードンさん
【ニューヨーク共同】第2次大戦後、連合国軍総司令部(GHQ)民政局のスタッフとして日本国憲法の起草作業に携わり、男女平等に関する条項を書き上げた米国人女性ベアテ・シロタ・ゴードンさんが昨年12月30日、膵臓がんのためニューヨークの自宅で死去した。89歳だった。娘のニコルさんが31日、共同通信に明らかにした。追悼式は後日行われる。
ニコルさんは「母は生前、憲法の平和、男女同権の条項を守る必要性を訴えていた。改正に総じて反対だったが、この二つ(の変更や削除)を特に懸念していた」と語った。供物で弔意を示したい場合は護憲団体「九条の会」に寄付してほしいという。
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凡人
:2015/06/13(土) 09:54:17 ID:da95RwFo0
戦後ニッポン「男女平等」の光と影 ベアテ・シロタ・ゴードンさん死去に思う
木村正人 2013年01月03日 15:16
終戦直後、連合国軍総司令部(GHQ)民政局の一員として日本国憲法の起草に参加し、24条の「男女平等」条項を書いた米国人女性ベアテ・シロタ・ゴードンさんが昨年12月30日、膵臓がんのためニューヨークの自宅で亡くなった。89歳だった。
共同通信に対して、ベアテさんの娘のニコルさんは「母は生前、憲法の平和、男女同権の条項を守る必要性を訴えていた。改正に総じて反対だったが、この二つ(の変更や削除)を特に懸念していた。供物で弔意を示したい場合は、代わりに護憲団体・9条の会に寄付してほしい」と語ったそうだ。
ベアテさんの発案で盛り込まれた日本国憲法24条は「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない」「配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない」とうたっている。
ベアテさんは平成12年5月、参院憲法調査会で「男女平等」条項が誕生した経緯について詳しく証言している。
「私は、戦争の前に10年間日本に住んでいたから、女性が全然権利を持っていないことをよく知っていた。だから、私は憲法の中に女性のいろんな権利を含めたかった。配偶者の選択から妊婦が国から補助される権利まで全部入れたかった」
ベアテさんの草案は現24条より随分と長かった。
・家庭は、人類社会の基礎であり、その伝統は、善きにつけ悪しきにつけ国全体に浸透する。それ故、婚姻と家庭とは、両性が法律的にも社会的にも平等であることは当然であるとの考えに基礎を置き、親の強制ではなく相互の合意に基づき、かつ男性の支配ではなく両性の協力に基づくべきことをここに定める。これらの原理に反する法律は廃止され、それに代わって、配偶者の選択、財産権、相続、本居の選択、離婚並びに婚姻及び家庭に関するその他の事項を、個人の尊厳と両性の本質的平等の見地に立って定める法律が制定されるべきである。
・妊婦と乳児の保育に当たっている母親は、既婚、未婚を問わず、国から守られる。彼女たちが必要とする公的援助が受けられるものとする。嫡出でない子供は、法的に差別を受けず、法的に認められた子供同様に、身体的、知的、社会的に、成長することにおいて機会を与えられる。
・養子にする場合には、夫と妻、両者の合意なしに、家族にすることはできない。養子になった子供によって、家族の他のメンバーが、不利な立場になるような偏愛が起こってはならない。長男の単独相続権は廃止する。
草案はGHQ内部で現24条に近い案に絞り込まれたが、日本側は猛反発した。ベアテさんは参院憲法調査会で「日本側は、こういう女性の権利は全然日本の国に合わない、こういう権利は日本の文化に合わないなどと言って、大騒ぎになった。天皇制と同じように激しい議論になった。夜中の二時に男女平等の条項がまた大変な議論になった。もう随分遅く、みんな疲れていた」と振り返っている。
米国側と日本側両方の通訳をしていたベアテさんに対する日本側の印象は良く、GHQ民政局ケーディス大佐はそれを利用して、「ベアテ・シロタさんは女性の権利を心から望んでいるので、それを可決しましょう」と日本側に提案した。ベアテさんが男女平等の草案を書いたことを知らなかった日本側はびっくりして、「それではケーディス大佐が言う通りにしましょう」と同意し、現在の24条が固まった。
ベアテさんがいなければ、日本の「男女平等」がどうなっていたかわからない。その意味で、ベアテさんは日本にとって「男女平等」の母と呼ぶにふさわしい。
こうした光の部分に比べて、「男女平等」が戦後日本に落とした影の部分についてはあまり知られていない。
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凡人
:2015/06/13(土) 09:54:57 ID:da95RwFo0
平成16年4月の衆院憲法調査会。生命倫理学の草分けで、元早稲田大国際バイオエシックス・バイオ法研究所長、木村利人氏が「科学技術の進歩と憲法」をテーマに参考人として証言した。その内容は衝撃的だった。
木村氏は医療の「インフォームド・コンセント(十分な説明と同意)」を日本に初めて紹介、故坂本九さんが歌った「幸せなら手をたたこう」の作詞家としても知られる。
刑法は戦前、戦後を通じて堕胎を厳しく禁じているが、婦人参政権が認められた昭和21年の総選挙で39人の女性代議士が誕生し、第一号の加藤シヅエさんらの議員立法で昭和23年、人工中絶の違法性を阻却する優性保護法(現・母体保護法)が施行された。
米連邦最高裁判決が「中絶は女性のプライバシー権」と認めたのはその25年後のことだから、戦後、日本の男女平等は米国を一気に追い抜いてしまったのだ。
富国強兵に突き進む日本は昭和16年、一夫婦平均5人出産という「産めよ、殖やせよ」政策を閣議決定し、「東亜共栄圏建設と発展のため内地で昭和35年に1億人」の目標を掲げていた。
しかし、その一方で米国の人口学者は昭和初期に、「世界人口の危険地域」の一つに、明治5年の約3300万人から昭和5年の約6370万人へ約60年間で人口がほぼ倍に増えた日本を挙げて、日本は東南アジアに国内過剰人口のはけ口を求める恐れが大きいと戦争の勃発を予言していた。
木村氏は衆院憲法調査会で「優生保護法は、米占領治下に可能になった法律だ。米国の戦後の統治の文献などを読むと、日本にやらせてはいけないことの一つとして、人口の増加ということがあった」と指摘した。
つまり、女性の権利を守るという触れ込みだった優性保護法には、日本の人口増加を抑制するという隠された狙いがあったというわけだ。
しかし、米側から思わぬ反発が起きる。バージニア州のカトリック信者からGHQのマッカーサー最高司令官あてに「このような法律をつくったら、日本人を大量虐殺した将軍、ジェノサイド・ジェネラルと呼ばれるでしょう」と抗議の手紙が届いた。
マッカーサーが自分でサインした手紙には「私は、日本人をジェノサイドするつもりはない」と記され、優生保護法の成立には関係していないことを強調している。
強姦が多発、経済的に困窮していた戦後の混乱期、優生保護法は女性の味方とされた。戦前、「人口1億人」の達成目標年とされた昭和35年は同42年にずれ込んだ。
木村氏は「米国というのは、いろいろな人体実験を含めて、極めて人権侵害を意図的に、大胆にやってきた国の一つだ。広島、長崎という、人間が、人類が絶対起こしてはならない犯罪的戦略によって日本の人口に対するアタックをした。米国がしたもう一つの実験の一つは、日本に優生保護法をつくったということだ」と証言した。
日本は先進国の中でも最も少子高齢化が進んでいる。これは米国の実験が成功したことを意味しているのだろうか。
ベアテさんの「男女平等」が戦後日本の光明として語られることはあっても、世界に先駆けて導入された優生保護法の成立過程や、優性保護法と少子高齢化の関連性に光が当てられることはない。
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凡人
:2016/01/28(木) 13:02:11 ID:da95RwFo0
憲法の形骸化には目を見張るものがある。
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首相の靖国参拝訴訟、原告側の請求棄却 大阪地裁
2016/1/28 11:38 日経
2013年12月の安倍晋三首相の靖国神社参拝が憲法が定める政教分離原則に反するなどとして、戦没者遺族ら765人が安倍首相と国、靖国神社に、首相としての参拝差し止めや損害賠償を求めた訴訟の判決が28日、大阪地裁であり、佐藤哲治裁判長は憲法判断には踏み込まず、原告側の請求を棄却した。参拝の性格が公的か私的かについての判断も示さなかった。
安倍首相の靖国神社参拝を巡る訴訟の判決は初めて。同様の訴訟は東京地裁でも起こされている。
歴代首相の靖国参拝を巡る同様の訴訟では憲法判断を避ける流れが定着している。小泉純一郎元首相の参拝を巡る訴訟で、06年の最高裁判決も「神社への参拝行為は他人の信仰生活に対して圧迫、干渉を加えるような性格のものではなく、損害賠償の対象となるような法的利益の侵害があったとはいえない」として憲法判断せず、原告側の上告を棄却した。
原告側は、安倍首相が参拝の際に公用車を使用し「内閣総理大臣」名で献花したことなどから「職務行為としての参拝だったことは明らか」とし、公務としての参拝だったと主張。憲法20条の政教分離原則に違反すると指摘した。これに対し、安倍首相や国は「参拝は私人の立場で行ったもの」と反論。「具体的権利や法的利益の侵害があったとは言えない」などとして主張した。
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