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大東亜戦争(太平洋戦争)の真実

1凡人:2011/11/06(日) 15:51:51
戦争の風化や元日本兵の美化や伝説化が見られるなかで歴史の真実に迫る。

2凡人:2011/11/06(日) 15:57:19
故横井庄一氏は何故「戦争のことを話さなかった」のか。戦争の証言者となるべき者が何も語らないで、この世から消えていなくなること、真実が失われて行くことに悲しみを覚える。
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故横井庄一さん 戦後の姿手記に
2011年11月5日 夕刊

 太平洋戦争の激戦地グアム島のジャングルで二十八年間生き抜いた元日本兵、故横井庄一さんの妻美保子さん(83)=名古屋市中川区=が、帰国後の夫の姿を描いた「鎮魂の旅路〜横井庄一の戦後を生きた妻の手記」を出版する。美保子さんは「帰国後の生活は、グアムで亡くなった一万九千人の日本兵の仲間たちへの鎮魂。戦争を知らない人が増え、こうした本が後世に残ってくれれば」と祈っている。

 帰国後の生活を一冊にまとめるのは、横井さんの願いだった。生前にグアム島での耐乏生活に関する本を出版したが、「日本に帰ってからのことは、おまえが書いてくれ」と美保子さんに託したという。

 今回の手記では、横井さんと美保子さんの出会いが描かれる。二人は横井さんの帰国後に、お見合いで知り合った。すでに有名人になっていた横井さんは、美保子さんに「私を見に来ただけだろう」と言い、美保子さんが怒ったというエピソードが記されている。

 今は美保子さんが一人で暮らす自宅には、横井さんの死後、洞穴を再現した記念館を建てた。開館日の日曜日になると、十人近くの人たちが来館する。東日本大震災後は、被災地の惨状と戦火を重ねた若者も訪ねてきた。

 そんな中、美保子さんが思い出すのは、横井さんのこんなつぶやきだ。「(周囲の人が)みんな、子どもや孫のあることが当たり前のように思って暮らしている」

 美保子さんは「普段、『せっかく帰ったのだから楽しまないと』と自宅では戦争のことを話さなかった。けれど、帰ってきて子も孫も持てず、やはり戦争で損をしたという気持ちがあったのでしょう」。時代に振り回された夫の人生をおもんぱかる。

 「鎮魂の旅路」は、美保子さんが書きためた手記を中心に、横井さんの手記や生前のインタビューを掲載。横井さんの晩年の闘病生活も書かれている。横井さんの死後、記念館の準備や管理に追われ、出版は先延ばしになっていたが、今年、記念館の開館五周年を迎えたのを機に「自分が元気なうちに」と編集を進めた。美保子さんは「編集の都合で本に載せられなかった話はたくさんある。できたら今度は小説のような形でまた書いてみたい」と話している。

 「鎮魂の旅路」は、ホルス出版(大阪市)から十一月中に発売予定。千二百円(税抜き)。問い合わせは、プレス・サリサリ・コーポレーション=電06(6356)5237=へ。

 横井庄一さん 1915年、愛知県佐織村(現愛西市)生まれ。41年に出征し44年にグアム島に上陸。戦後も投降せず、72年1月に現地の住民に発見されるまでの28年間洞穴などで生活。帰国時に話した「恥ずかしながら帰ってまいりました」は流行語になった。同年11月、美保子さんと結婚。帰国後は全国で講演を重ね、趣味の陶芸は個展を開くまで熱中した。97年に82歳で死去。

3凡人:2011/11/14(月) 14:07:02
産経新聞に一貫する歴史観。「玉砕してまで国や家族を守ろうとした英霊」ですか。玉砕は自殺を意味する。軍国教育のなれの果ての行為。降伏して日本の国の再建に努力したら真の英霊になったろうに。アメリカに負けたからこそ、天皇が神から人間に引きおろされ、日本人の目を覚まし、女性の地位が上がり、平和憲法の下に日本の繁栄と平和が築かれたとみる歴史観はどうですかね。
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【デスクから】世間ではそれを洗脳と呼ぶ 欺瞞に満ちた反戦・平和
2011.11.14 09:45 産経

 噂に違わぬ偏向ぶりというべきか。休日に訪れた立命館大国際平和ミュージアム(京都市)。いくら反戦・平和がテーマとはいえ、歴史をみる上で不可欠なバランス感覚がまるでなく、「日本悪玉論」一色で塗り固められていた。

 常設展示の「一五年戦争」。満州事変から先の大戦の敗戦までの間、日本は一貫して侵略を繰り広げた−という歴史観がにじむ呼称だ。爆撃や捕虜・民間人の殺害、抗日・反戦活動の取り締まりなど、日本の加害行為を断罪する展示、解説が続く。「過去の過ちを直視して反省します」。そんな“善意”に満ちた言葉が聞こえてくる。

 しかし、当時は弱肉強食の時代。分裂状態だった中国やアジア支配を強める白人国家の欧米列強に翻弄され、独立を守る自衛の側面も強かった戦争を侵略の一言で片付け、影の部分だけを誇張、強調するのはフェアではない。日本を「悪い国」にしておきたい国々のお先棒を担ぎ、南京大虐殺や強制連行という虚構までまき散らしている。

 日本将兵の無残な遺体写真の前で足が止まった。玉砕してまで国や家族を守ろうとした英霊を悼む心はないのか。人に罪悪感を植え付け、都合のよい情報だけを刷り込む。世間ではそれを洗脳と呼ぶ。(京都総局 牧野克也)

4凡人:2011/11/23(水) 03:43:05
伝説は作られる。アメリカを参戦させた責任者の一人。その結果、領土の喪失、敗戦、無条件降伏、唯一の原爆被爆国、連合軍の占領。日本兵だけでなく民間人に大多数の戦死者を出した。それがどんなに間違ったことでも、またそれによってたくさんの国民の血が流れても、靖国神社に英雄として奉られる。伝説は生まれ、戦争の酷さはいつの間にか忘れられている。日本の国民の血がいかに価値がないか、その天皇主権の国・日本を教えてくれる。
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山本五十六記念館:大和ミュージアムと連携
2011年11月22日

米軍機に撃墜された山本長官搭乗機の左翼部分=山本五十六記念館で2011年11月17日、岡村昌彦撮影 ◇互いの資料や商品扱う 年末公開の映画を機に

 新潟県長岡市出身で旧日本海軍連合艦隊司令長官の山本五十六(1884〜1943)の人間像を紹介する同市の「山本五十六記念館」と、戦艦「大和」の10分の1模型などを展示する広島県呉市の「大和ミュージアム」が、互いの商品を販売したり資料を展示するなど連携することになった。【岡村昌彦】

 映画「聯合(れんごう)艦隊司令長官 山本五十六」が年末に全国公開されるのを機に、両者の間で交流する案が持ち上がった。山本はミッドウェー海戦(42年)で、大和に乗船して指揮を執っている。 

 今月14日に長岡商工会議所で初めて懇談会が開かれ、両者のほか、山本元帥景仰会、長岡市、長岡観光コンベンション協会、呉市の関係者らが参加した。

 大和ミュージアム側が、互いに紹介するポスターやパンフレットを両館に置くほか、企画展示の連携、お土産販売コーナーで互いの商品の販売を提案。今後、互いに連絡を取りながら検討することになった。

 また、長岡観光コンベンション協会が、山本五十六ブランド商品の開発について説明。同協会会員のうち、19社が提案した文具や飲食関係など24品を承認したと報告。現在商品開発が進められているほか、大手通商店街振興組合もアドバイザーを招いて商品開発に取り組んでいるなどとした。呉市側からは、商品の共同開発についての提案もあった。

 大和ミュージアムの戸高一成館長は「互いに情報を交換しながら、商品や資料の展示などを進めたい。五十六の書や遺品を借りて企画展示もしてみたい」と話した。

 山本五十六記念館は99年に完成。山本が米軍機に撃墜された搭乗機の左翼部分と指揮官席のほか、書簡や遺品などを展示する。

 一方、大和ミュージアムは05年オープン。旧海軍呉工廠(こうしょう)で建造した大和の模型を目玉に、乗組員の遺書や呉空襲の被害状況などを展示しており、年間約100万人が来館している。名誉館長には、作家の阿川弘之氏、アニメ「宇宙戦艦ヤマト」の漫画家、松本零士氏らが就任しているほか、戦時中に長岡に疎開し、映画の監修を務める作家の半藤一利氏も近く就任する予定。

5凡人:2011/11/30(水) 19:45:06
橋下維新から自虐史観と批判 「ピースおおさか」初のリニューアル検討
2011.9.13 14:22

 戦争と平和の調査研究と展示を目的に、大阪府と大阪市が出資して設立した施設「大阪国際平和センター」(ピースおおさか)=大阪市中央区=が、平成3年の開館以来初めて、展示の大幅リニューアルを検討していることが13日、分かった。同施設は自虐史観に基づく展示だとして批判の声も出ていたが、橋下徹知事は「議会での議論を通じ府民の意思を反映すべきだ」と9月府議会での議論を指示。公共施設の歴史展示のあり方について、議会での議論を首長が促すのは異例だ。

 ■出典不明写真…年13万人の児童生徒

 知事が代表を務める地域政党「大阪維新の会」の府議と大阪市議らは同日午後、合同でピースおおさかを視察する。ピースおおさかの現在の展示は「A 大阪空襲と人々の生活」「B 15年戦争」「C 平和の希求」の3部構成で、来館者は6〜7割が小中学生や高校生。主に課外学習に利用されている。B展示では、中国大陸や朝鮮半島で旧日本軍が行った加害行為について、ナチスのアウシュビッツ強制収容所とともに展示、解説している。府人権室は「自国の加害の歴史に正面から向き合っていると評価を得てきた」とするが、南京事件などの加害行為には、さまざまな見解があり「展示内容は一方的」という批判も寄せられている。


 リニューアルでは、子供が理解しやすいよう、難解な表現を平易に改めるなどの変更を検討。学習指導要領に準拠し、学校での勉強を復習したり、理解を深めたりできる展示を目指す。実物大の防空壕(ごう)など体験型展示の増設も検討。来年の2月府議会に予算案を提出し、25年4月にリニューアルオープンしたい考えだ。

 一方、維新は、リニューアルを前に府議団と大阪市議団で議論して意見を集約することを決定。維新府議団の一人は「税金が投入された施設にもかかわらず、自虐史観に基づいた展示になっており、内容に踏み込んで見直すべきだ」と話した。産経新聞の取材に橋下知事は「公金が入る以上、(リニューアルの内容を)ピースおおさかだけに任せず、議会でチェックするのは当然」と話している。

      ◇

 日中歴史共同研究近現代史分科会で委員を務めた坂元一哉大阪大教授(国際政治学・外交史)の話「どうすれば子供に分かりやすい展示になるか−というような展示手法を、府議会で議論されるのは良いと思う。多様な歴史観がある状況を、客観的に説明する展示になれば面白い。ただ近現代史は学術的に整理されていない部分が多いので、歴史の内容について踏み込んだ議論をするのは、専門家に任せるべきだ」

      ◇

 著書『博物館の歴史』(法政大学出版局)で平成22年度全日本博物館学会賞を受賞した高橋雄造氏の話「公共の展示施設は歴史的にみて、設置母体の正当性を主張する政治的な存在であり続けてきた。府議会での議論は政治闘争になり、純粋な歴史論争にはならないだろう。戦後60年余りが経過し、戦争の記憶が薄れていくなか、(リニューアルにより)世間の注目を集めることで、新たな史実を発掘するきっかけとなることを期待したい」

 【用語解説】ピースおおさか

 戦争と平和に関する資料を収集、保存、展示し、世界平和の実現に貢献することを理念として平成3年9月に設立された。会長は元国連大副学長の武者小路公秀氏(国際政治学・平和学)。9年6月と10年3月の2度、出典不明の写真などが展示に使用されていたことが判明し、一部を修正、撤去した。22年度の来館者数は7万5450人。このうち小中学生が4万6945人、高校生が3774人。

6凡人:2011/12/02(金) 09:19:56
ワシントン駐在編集特別委員・古森義久
2011.12.2 02:56

 ■よみがえる山本五十六

 今月8日は日米開戦からちょうど70年となる。20年前の1991年のパールハーバー記念日は50周年とあって、現地で大規模な式典が催された。私も日本軍が沈めた戦艦の残骸の上のアリゾナ記念館で先代のブッシュ大統領が戦死者への追悼を述べるのに耳を傾けた。

 ブッシュ氏は日本に恨みはないと繰り返し、友好の実績を強調した。だが、「パールハーバー生存者連盟」のメンバーが6千人も式典に加わっていた。日本軍の攻撃時に現地で軍務にあった旧将兵によるこの会は半世紀が過ぎても全米で1万2千人が健在だった。だから「多くの戦友は日本軍のスニーク・アタック(だまし討ち)に不意をつかれ殺された」という非難の声もなお出ていた。

 日米間の戦争を人間同士の殺し合いの歴史としてまだ皮膚でなまなましく感じさせられた記念日だった。

 だがそれから20年、米国側のパールハーバーへの思いはずいぶんと変わったものだと認識させられた。抑制とか自省という表現を連想させられる変化なのだ。その変化は11月はじめに出版された日米戦史「太平洋の試練」を読んでの実感だった。著者は44歳の歴史研究者、イアン・トール氏で、ノートン社刊。大手新聞各紙がすでに大きな書評で紹介し、話題の書となってきた。

 同書は開戦冒頭の半年、とくにパールハーバーへの日本軍奇襲の成功とミッドウェー海戦での米軍の圧勝という二大作戦に多角的な光を当てた。主眼は二大戦闘にしぼり、日米両海軍の戦略や戦術を精密に紹介しているものの、開戦までの日本側の事情を明治にまでさかのぼって解説した点が類似の戦記とは異なる。

 日本にとってロシアとの戦争も不可避の事態として描かれ、日本軍将兵の武勇や礼節を正面からたたえている。米国との協調を求めた日本がカリフォルニアの排日運動で傷つけられた経緯をも詳述する。満州事変以降の日本の動きについては従来の米側歴史家の一方的断罪にも流れるが、日本が中国からの全面撤退要求や石油禁輸に直面し、選択肢を失っていく状況も客観的に伝えていた。

 しかし同書の最大の特徴は戦争の当事者たちの人間像を日米均等な視線で追ったことだろう。政治指導者から提督、一兵卒まで膨大な資料を駆使して、その言動の人間的軌跡をわかりやすく伝えている。なかでもとくにハイライトを浴びるのは連合艦隊の山本五十六司令長官である。

 同書は山本長官を「例外的な天然のカリスマを有し、国と部下を愛した豪胆な人物」とほめながらも、ミッドウェー海戦での決定的な敗北の責任者とも評する。ギャンブルや恋愛を楽しみながらも、米国との戦争に反対し続けた英知も指摘する。その意味ではこの書は、今の米国民にとって多様な顔でよみがえる山本五十六像の提示だともいえそうだ。

 山本長官についての米書はすでにかなり世に出たが、戦史にその人間像をここまで盛り込んだ作品は初めてだろう。しかも敵将としてよりもまず人間としてという視点なのだ。

 著者のトール氏は5年前に米海軍の起源を書いた大作でデビューし、幾多の賞を得た海軍史の気鋭作家で、11歳からの3年間、両親とともに日本で暮らした。本書の「人間的な視点」について本人に問うと、「疑いなく自分自身の日本での生活、日本の人との親しい交流が主要因だと思います」と答えるのだった。(ワシントン駐在編集特別委員)

7凡人:2011/12/02(金) 10:41:08
神社と国家との分離指令
1945年12月15日

国家神道は国民に天皇崇拝を強制し、軍国主義につながったとして、GHQは政府に国家神道に関する覚書を出した。覚書では、神社神道に対する公的財政援助の停止、公立学校での神道的教育の廃止、学校や役所などからの神棚の撤廃などを求めた。国家と宗教の分離、信仰の自由の保障を骨子とし、覚書で示された理念は日本国憲法に引き継がれ、政教分離や信教の自由が確立された。

<当時の新聞紙面>

国民学校の教室にも神棚がつくられていた 1941年4月 

靖国神社の見学にきた進駐軍兵士 1945年11月 東京・九段

8凡人:2011/12/03(土) 07:30:38
戦前の日本と今の北朝鮮が幾つもの点で類似していないか。当時アメリカ人が日本の教育を知ったら、同じように驚愕したろう。
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北朝鮮・驚愕の教科書 (文春新書)
By 宮塚 利雄, 宮塚 寿美子
おすすめ度:
(6 カスタマーレビュー)
商品の詳細
発売日: 2007-02 /版型: 新書/232 ページ
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エディターレビュー
内容(「BOOK」データベースより)
「日帝野郎」「天皇野郎」「米帝野郎」のオンパレード。日本人は徹底的に極悪で、金正日は昼の日本列島を夜にする妖術師。仰天の教科書を読み解き、反日・嫌日誕生の現場を検証する。

著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
宮塚 利雄
1947年、秋田県生まれ。高崎経済大学卒業後、韓国・慶煕大学校大学院修士課程、檀国大学校大学院博士課程修了。山梨学院大学教授

宮塚 寿美子
1980年、ソウル生まれ。立命館大学文学部日本文学科卒業後、韓国・明知大学校北朝鮮学科大学院修士課程修了。同大博士課程在籍中。現在、韓国の大学、政府機関で日本語講師をしながら北朝鮮社会の分析・研究を続けている(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
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カスタマーレビュー
最も参考になったカスタマーレビュー

29 人中、 32 人の方が、「このレビューが参考になった」と投票しています。
衝(笑?)撃の北朝鮮教科書の世界
By ishilinguist
 本書は、きわめて入手困難な北朝鮮の小学校の国語と音楽の教科書を紹介している。
 そこには例えば、金日成、金正日の明らかに非現実的な超人的な能力(金正日が地球儀の日本を塗りつぶすと本当に日本でも真っ暗になったらしい)や、ひたすら彼らを賛美する言葉、そして日本、韓国、米国に対する明らかに事実と反する罵倒の言葉が展開している。
 これらの常軌を逸した、とうてい教育的と思えない教科書は、金日成・金正日体制を正当化するためのものであるという。
 誤解を恐れずに言えば、「キワモノ」として冗談の種にあふれた一冊ではある。しかしまた同時に、日本海のすぐ向こうにこのような体制を持つ国家が現実に存在しており、多くの民を飢えに苦しませながら、現代の日本を「軍国主義」と非難し、拉致問題や核ミサイルに対してなんら誠実的な対応をみせていないことに、我々は戦慄せざるを得ない。
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9凡人:2011/12/03(土) 07:31:35
22 人中、 26 人の方が、「このレビューが参考になった」と投票しています。
どこまで嗤えるか
By 青ち
北朝鮮の初等教育の現場で、どのような教材で何が教えられているか。使用されている教科書を資料として読み解いた一冊。資料紹介や解題もさることながら、ふんだんに示される現物の写真は、日本随一の北朝鮮グッズ蒐集で知られる著者であればこそ紹介可能なものであり、たいへん興味深い。

北朝鮮の教育とは、要するに金日成・金正日親子の「偉大さ」を子どもたちに繰り返し教え込み、リッパな「朝鮮人民」に育て上げるための刷り込み機能を受け持っているわけだ。そのために用意されるお話や歌の数々は、当事者ならぬ評者からすれば荒唐無稽・抱腹絶倒なネタの行列である。

だが、当事者にしてみれば、こうした教育内容の教材に、評者と同じ感想を抱きつつ接しているわけではないだろう。程度はわからぬが、それ相当の真剣さでもって扱われているはずである。でなければ、今日まで曲がりなりにも北朝鮮の体制が維持できていることの説明がつかないし、韓国にたどり着いた脱北者が一様に「だまされた」という感想を述べるはずもない。

考えてみれば、教育というのはそもそも子どもへの何らかの刷り込み機能を担っているわけであって、ここに出てくる「驚愕の教科書」をどこまで嗤っていいのか、斬って捨ててしまうには若干の躊躇いが残る。リアルな北朝鮮製品のように歪んではいるが、これもやはり自らを映す鏡として読むことができるのではないか。

8 人中、 10 人の方が、「このレビューが参考になった」と投票しています。
金日成原理主義による政教融合
By according to the conservative
  北朝鮮の教科書を紹介した一書です。ひと事でいう、国家の英雄
である金日成、金正日親子を神格化する一方で、日本・アメリカを憎
み打倒すべき敵とする教育が徹底的に刷り込まれています。現実と
してこのような教育が為されている国家と国交正常化は、中国の反日
デモに遭遇する以上のリスクがあると思われます。ちなみに、金日成
の神格化は、日本の天皇が神の子孫であるとする古事記の導入のよ
うです。憎むべき敵のシステムを採用する貪欲さには脱帽しました。

http://astore.amazon.co.jp/asapykadan-22/detail/4166605577
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10凡人:2011/12/08(木) 01:59:06
ニュース争論:真珠湾攻撃70年 半藤一利氏/松尾文夫氏
毎日新聞 2011年12月5日 東京朝刊

 真珠湾攻撃(41年12月8日)から70年。先の大戦が遠い過去の出来事になりつつある中、パールハーバーの記憶は両国に今も複雑な影を落としている。少年時代に共に日米開戦を体験した作家の半藤一利さんと首脳の相互献花外交を訴えるジャーナリストの松尾文夫さんが、「真珠湾の日」を語り合う。【立会人・岸俊光編集委員、写真・武市公孝撮影】

 ◆米国を知らず誤解の開戦−−作家・半藤一利氏

 ◆首脳献花で戦争にけじめ−−ジャーナリスト・松尾文夫氏

 ◇快哉叫んだ大人たち
 立会人 日米開戦の時、半藤さんは11歳だったそうですね。

 半藤 東京の向島にあった国民学校の5年生でした。12月8日は月曜日で学校へ行かなきゃいけないので、7時ごろには起きていました。薄氷が張るぐらいの本当に寒い朝でしたね。午前7時にラジオの臨時ニュースが流れ、「帝国陸海軍は本8日未明、西太平洋においてアメリカ、イギリス軍と戦闘状態に入れり」と。普段通りにラジオ体操も放送されましたが、臨時ニュースは何べんも繰り返されました。学校に行くと先生たちが興奮していましてね。1時間目に1年生から6年生まで校庭に集められ、校長の訓示がありました。「大変な時代になる。しっかり勉強せい」という、下町の悪がきには迷惑千万な話でしたが、学校中が緊張していたことを明瞭に覚えています。

 うちに帰ったら、父親が「これでこの国も駄目になった」と言ってましたよ。私が「始めたら勝たなきゃいけねえじゃないか」と反発したら「勝つと思うのか、バカ」なんて言われてね。

 松尾 すごいお父さんですね。何をされていたんですか。

 半藤 区会議員をやっていました。そういう変なおやじでしたので、他の子供よりは目覚めていましたけどね。

 日中戦争が泥沼化したあたりから、日本人には頭に重い物が載っているような感じがありました。アメリカとイギリスが後ろにいるから日中戦争がうまくいかないことは、子供でも知っていた。いつか討たなきゃいけないと、世間ではかなり言われていたと思います。それがいっぺんに晴れた感じが大人たちにはあったんじゃないでしょうか。「〔真珠湾〕の日」という本にも書きましたけど、当時のインテリがみんな快哉(かいさい)を叫んでいますからね。

 松尾 私は半藤さんより3歳下の2年生なんです。今の新宿区百人町に住んでいました。父は軍人で中国に出征していました。母がみるみる緊張したことが記憶にあります。学校では、先生が高揚して「南洋からゴムがいっぱい届くので道路がゴム敷きになる」と話されていたのを覚えています。

 半藤 結局戦争は石油が原因なんだけど、当時はあまり言わなかったね。

 松尾 私の場合は、4カ月後の42年4月18日にアメリカのドーリットル爆撃機が真珠湾攻撃の報復に東京を初空襲した時、国民学校の校庭で副操縦士の顔を目撃したことの方が強烈な出会いでした。2005年にアメリカまで彼を訪ねていったんです。94歳で今も元気。時々電話してきます。毎年4月18日に乗員の同窓会を開いています。隊員80人のうち5人が生き残っています。いまだに空軍の愛国行事です。

 ◇野球と映画とジャズ
 立会人 アメリカと戦争するのは特別だったんでしょうか。当時の言い方は「米英」ですか、「英米」ですか。

 半藤 米英ですね。後で調べた話ですが、1939(昭和14)年ぐらいまでは英米なんです。アメリカが日本との通商航海条約を破棄し、40年に失効した。それからなんですよ、アメリカが上に出てきたのは。日本はアメリカを意識しているから日中戦争も戦争にしない。あくまで事変なんです。アメリカは、中立法で戦争当事国には石油を送らないと言っていました。中国もアメリカに借金をしているから日本に宣戦布告しない。そもそもそれが国民にはよく分からない話でした。

 松尾 アメリカがでかい国だということを意識したのは、日米の子供が綱引きをしている絵を描いた5年生の時でした。その後、福井でB29の爆撃を生き延び、今もアメリカを追い続けています。当時、日本はアメリカをどの程度知っていましたかね。

 半藤 いやあ、知らなかったね。知っているのは野球と映画ぐらい。

 松尾 ジャズもあったと思いますが、基本的にはすれ違いでしたね。

 半藤 12月8日は新宿の昭和館で「スミス都へ行く」を上映していたんです。作家の野口冨士男がアメリカ民主主義を描いたこの映画を見に行った様子を書いています。山本五十六はアメリカを知っていた方ですが、向こうに3年もいたのに友人がいない。太平洋戦争は誤解の戦争です。アメリカ人も日本人はみんな近眼で飛行機の操縦なんかできないと思っていたんだから。
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11凡人:2011/12/08(木) 01:59:43
 ◇若者に昭和の歴史を
 立会人 戦後、日本人は真珠湾攻撃をどう受け止めてきたのでしょうか。

 半藤 若い人は12月8日に日米戦争が始まったことを多分よく知らないんじゃないですか。20年ほど前に、ある女子大で学生50人にアンケートをしたことがあります。第二次大戦で日本と戦争をしなかった国はアメリカ、ドイツ、オーストラリア、ソ連のうちどれかと尋ねた時、13人がアメリカと答えました。どっちが勝ったんですかと聞いた学生もいました。ひっくり返るほど驚いて、若い人たちに昭和の歴史を教えるのが大事だと思いました。

 松尾 そこが、あの戦争にけじめをつけていないという問題と絡んできます。300万人の犠牲を出した責任を日本は自ら裁いていない。5年ほど前に必修科目の世界史を履修していない高校が明るみに出ましたが、当時の駐日ドイツ大使は大変驚いていました。

 立会人 アメリカ人の捉え方は?

 松尾 第二次大戦後も、朝鮮戦争、ベトナム戦争、イラク戦争を戦い、今もアフガニスタン戦争の渦中にあります。アメリカ人にとって、戦争は身近な経験ですよ。戦後の日本とは対照的です。ですからアメリカをはじめ、あの戦争の当事国との和解の儀式が必要です。大統領の広島、首相のハワイ真珠湾アリゾナ記念館での相互献花はいまだに実現していません。中国の南京でも首相に献花をしてほしい。これは国際社会で生き残るためにも必要です。ドイツは完全に済ませています。

 半藤 今では太平洋戦争や昭和史を書く若い人が多くなってきましたが、私がのめり込んだ昭和30年代は、文芸春秋にも他には誰もいませんでした。一人で元提督や元将軍に会いにいったものだから、半藤という名前から「あいつは反動分子だ」と言われたりしてね(笑い)。墨塗り教科書もよく占領軍の指令だと間違われますが、日本が自主的にやったことでした。それぐらい歴史から離れようとしたんです。

 松尾 日本はそのしっぺ返しを今静かに受けていると思いますね。

 ■聞いて一言

 ◇子供の鋭い時代観察 体験者の提言を心に
 資料の公開を待って歴史の決定版を書くのもいいが、体験者にしか語れない時代の息吹がある。その大切さをお二人に教えられた。真珠湾攻撃がアメリカの日曜日とは知っていたが、日本では学校の始まる月曜日の朝だったことまで思い及ばなかった。子供から見た大人社会の鋭い観察だと思う。米スミソニアン航空宇宙博物館別館を訪れた時、展示されている広島原爆投下のB29エノラ・ゲイの説明板が犠牲者に何も触れていないことに驚いた覚えがある。日米の認識の違いはなお大きいだけに貴重な提言をかみしめたい。(岸)

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 ■人物略歴

 ◇はんどう・かずとし
 30年生まれ。東京大文学部卒。文芸春秋に入社し「文芸春秋」編集長、取締役を歴任。著書に「日本のいちばん長い日」「山本五十六」など。

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 ■人物略歴

 ◇まつお・ふみお
 33年生まれ。学習院大政経学部卒。共同通信に入り、ワシントン支局長などを務めた。著書に「オバマ大統領がヒロシマに献花する日」など。
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12凡人:2011/12/08(木) 02:05:06
太平洋戦争:日米開戦70年 運命の12・8 破局への道、なぜ
毎日新聞 2011年12月4日 東京朝刊

 日本軍がハワイ・真珠湾を奇襲して太平洋戦争が勃発してから、8日で70年を迎える。終戦までの3年8カ月の間に、日本人だけで約300万人が命を奪われた。補償を求める裁判が続くなど、戦争は今日にまでつながっている。大日本帝国の政府、軍部とも、アメリカとの戦争に勝つことはできないと承知していた。ではなぜ、開戦に踏み切ったのか。また、引き返す道はなかったのか。12・8から70年を前に、検証したい。【栗原俊雄】

 ●分水嶺、三国同盟

 太平洋戦争に至った原因としては明治以来の大陸膨張政策や満州事変などさまざまな指摘がある。今回は平和と戦争の分水嶺(ぶんすいれい)の一つとなった、日独伊三国同盟(1940年)以降を中心にみてみよう。

 欧州で独伊の、アジアで日本の指導的地位を相互に認め、第三国(事実上アメリカ)との武力衝突の際は相互に軍事的支援を行う−−これが三国同盟の内容だ。

 須藤眞志・京都産業大名誉教授(国際関係史)によれば「日本近代外交史上、最悪の選択」だった。「米国にとって最大の敵、ドイツと同じファシズムの国と認定されてしまった」からだ。井口治夫・名古屋大教授(日米関係史)も「フランスをあっという間に破ったドイツと日本が組めば、米国にとって脅威。日本は同盟を結ばず、その脅威をカードに対米交渉を続けるべきだった」と指摘する。

 なぜ同盟を結んだのか。山田朗・明治大教授(近現代軍事史)は「第二次世界大戦初頭のドイツの華々しい勝利で日本、特に軍部は幻惑された。イギリスを屈服させられると信じた」と解説する。ドイツ勝利でアジアにおける植民地再分割に参加できる、との期待があった。

 また、時の松岡洋右外相は、同盟で対米交渉を優位に進めようとし、ソ連を含めた4カ国同盟も想定していた。だが独ソ開戦で、松岡の構想は空中分解する。

 ●独頼みの戦争構想

 日米間には圧倒的な国力差があった。独力で米国を屈服させることは不可能と、当時の日本政府、軍首脳とも承知していた。では、どのように戦争を構想したのか。

 開戦直前の41年11月15日、大本営政府連絡会議で「戦争終結構想」が決定された。主な内容は(1)南方作戦で戦略的自給圏を確保する(2)中国の蒋介石政権への圧力を強める(3)独伊と連携し英国を屈服させる(4)それによって米国の戦意を失わせ、講和に持ち込む−−といったものだ。対英戦争の主力は独軍だが、海軍力に乏しく、英軍を屈服させられるかは未知数。実現しても、それで米国が戦意を失うとは限らない。仮定の上に仮定を重ねた空想のような「戦争構想」で、日本は戦争へと進んでいく。

 ●仏印進駐が「引き金」

 日本の中国侵略に対し、米国は対日経済制裁を強めた。日本はさらに40年9月23日、フランスの植民地だった北部仏印(現ベトナム北部)に進駐。すでにフランスはドイツに敗北しており、日本にとっては石油など戦略資源が豊富な南方を獲得する好機だった。英米などによる蒋介石政権への支援物資補給路(援蒋ルート)を断つ目的もあった。

 これに米国は、くず鉄など戦略物資の禁輸で応じた。日本は翌年7月2日の御前会議で、南進を優先し、状況に応じ北進(対ソ戦)することを決めた。一方米国は、在米日本資産を凍結してしまった。

 それでも同月28日、日本軍は南部仏印に進駐し、米側は対日石油輸出を全面的に禁止。日本の政府、軍首脳は、これを全く予想していなかった。

 当時、日本は石油の大半を米国からの輸入に頼っており、打撃は大きかった。軍部の見立てでは石油備蓄量は2年分しかなかった。オランダの植民地だった蘭印(現インドネシア)からの輸入交渉も、うまくいかなかった。

 「日本側は、北部と南部ではたいした違いがないとみていた。ところが米国にとっては南部進駐で(アジアにおける米軍の拠点)フィリピンが脅かされると感じた」と、等松春夫・防衛大学校教授(政治外交史・戦争史)。米国はこの時点で対日戦を決意した、とみる研究者が多い。
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13凡人:2011/12/08(木) 02:05:47
 ●「開戦決意」御前会議

 国策については、政府や統帥部(陸軍参謀本部、海軍軍令部)首脳による「大本営政府連絡会議」で話し合い、その決定は天皇が臨席する御前会議で裁可された。会議では、天皇は発言しないのが習わしだった。

 だが9月6日の御前会議で天皇は、明治天皇の和歌を読み上げた。「四方(よも)の海皆同胞(はらから)と思ふ世になど波風の立ち騒ぐらむ」。「避戦」のための、異例の発言だった。

 だが、この日決定された「帝国国策遂行要領」には、10月下旬をめどに対米英蘭戦争の準備を完成させること、とある。また外交を進める一方、10月上旬ごろまでに要求貫徹のめどが立たない場合は「直ちに開戦を決意」することを決めた。戦争への、大きな前進−−。

 天皇の発言について戦中派の作家、五味川純平は後に「詩歌は感傷的感慨の表現手段でしかない」「朕(ちん)は戦争を欲せず、と言ったらどうであったか」と嘆息している。

 ●「切り札」東条内閣

 対米交渉の鍵は中国撤兵だった。だが東条英機陸相ら陸軍強硬派は「多大な犠牲を払った中国から撤兵できない」と猛反対。日米交渉の見通しを失った近衛文麿首相は、内閣総辞職を選ぶ。

 内大臣の木戸幸一は、後任首相として東条を天皇に推薦。陸軍ににらみがきく者を首相に据え、強硬派を抑える狙いだった。天皇は「『虎穴に入らずんば虎児を得ず』だね」と応じた。すでに米国という虎の尾を踏んでいたことに、日本の為政者は気づかなかった。

 天皇は東条に、9月6日の決定を白紙に戻すように指示。東条は国策の変更を模索するが、国家が平和へとかじを切り直すことはなかった。

 天皇が戦争回避を望んでいることを知った統帥部は、説得工作を進める。兵器や船舶確保の見通しについて具体的データを示し、対米英戦争は可能、とした。天皇は説得された。

 山田教授は「甘い見通しだったが、軍官僚たちも安心材料が欲しかった。自分たちが作ったデータを信じるようになり、催眠術にかかったように『何とかなる』と思い込んだ」とみる。11月5日の御前会議で対米英蘭戦争を決意し、「武力発動の時期を12月初頭と定め」た。ただ、対米交渉が同月1日午前0時までに解決すれば、武力発動は停止することが確認された。

 ●拒否できぬ海軍

 対米戦は、海軍が「ノー」と言えば始められない。自らの意思で「避戦」を貫くことのできない近衛や、陸軍の一部も、それに期待した。だが及川古志郎海相は「戦争をするかしないかは政府の決めること」と判断を回避。永野修身・軍令部総長はより強硬な対米開戦論者だった。

 井上寿一・学習院大教授(日本政治外交史)は「海軍は対米戦を想定して軍備を拡張してきた。いざという時『戦えない』とは言えなかった」とみる。現代史家の秦郁彦氏も「時がたつほど国力の差が出てしまう。石油も心もとない。やるなら今、ということだった」と解説する。

 井上教授は「軍部に複雑な国家運営を任せるのは無理。また明治憲法体制下では天皇親政は否定されている。本来なら政党が責任を果たすべきだった」と指摘する。だが2大政党、政友会と民政党は、腐敗や政争のため国民の支持を失った。さらに大政翼賛会に参加するため、解党してしまった。「権力の核が陸軍と海軍、外務省などに細胞分裂のように広がり、誰も調整できないまま戦争に突き進んでしまった」(井上教授)

 ●ハル・ノート

 対米妥協を模索する東条内閣は、米側との交渉で11月7日に「甲案」を提示。主な内容は(1)日中間の平和が確立した場合、最大25年をめどに中国から撤兵する(2)仏印の進駐軍は、日中戦争の解決か極東平和の確立とともに撤兵する−−だったが、事実上拒否された。さらに20日、乙案(日本が仏印以外の南東アジア、南太平洋地域には進駐しない代わりに米側は日米関係を資産凍結以前に戻す)を提示した。中国撤兵問題という懸案を棚上げするものだ。この時点で日本政府は、これを切り札かつ最終案と認識していた。

 米側は結果的に「ハル・ノート」で応じた。主な内容は(1)中国、仏印からの撤兵(2)汪兆銘政権の否認(3)三国同盟の空文化。日本側の主張とかけ離れており、戦争を避けたがっていた東郷茂徳外相でさえ「もはや立ち上がるより外はない」と覚悟する内容だった。運命の開戦が決まった。

 アメリカ側にも誤算があった。「対日強硬派は弱者(日本)は強者(米)に立ち向かわない、と読んだ。『窮鼠(きゅうそ)、猫をかむ』という発想はなかった」(須藤名誉教授)のだ。現実の歴史では日本は直ちに立ち上がり、米軍は緒戦に大きな痛手を受ける。日米は互いに、相手の譲れない一線を読み違えていた。
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14凡人:2011/12/08(木) 02:06:31
 ●誤算続き、日米交渉

 井上教授は「日米間には開戦を不可避とするような対立点はなかった」とみる。ではどの時点なら、戦争への道を引き返せたのか。

 日米関係の改善のための交渉は41年4月から本格化し、野村吉三郎駐米大使によって日米「諒解(りょうかい)案」の内容が本国に伝えられた。日本政府は、それが米側の提案であると認識した。内容は(1)日本軍の中国撤兵などを条件として、米国が満州国を承認、日中和平交渉を仲介する(2)日米通商航海条約の実質的復活(3)米側は三国同盟を防衛的なものとして解釈し容認する−−など。

 日本に大きく配慮した内容で、天皇は「我国が独伊と同盟を結んだからとも云(い)える、総(すべ)ては忍耐だね、我慢だね」と喜んだ。

 だが同案は、実は日米の民間人らが作成した試案だった。米側のハル国務長官の真意は(1)他国領土保全と主権尊重(2)内政不干渉(3)通商上の機会均等(4)太平洋の現状維持−−との「4原則」で、日本の希望とはかけ離れていた。ただハルも、暫定案を交渉のたたき台として認めてはいた。

 ところが、頭越しの交渉を知った松岡外相が反発。日本政府の回答は遅れ、しかも松岡の意を受けてはるかに後退したものになった。諒解案は雲散霧消する。

 対米交渉に行き詰まった近衛首相は、米側にルーズベルト大統領との直接交渉を申し入れた。中国撤兵を約束し、あとで天皇の認可を得るというもくろみだった。

 しかし米側はこれを拒否。近衛の指導力、日本の外交そのものへの不信感もあった。須藤名誉教授は「近衛は天皇の許可を得ていた節がある。実現していれば、日米交渉は続いたのでは」と言う。

 日本の乙案提示後、米側は(1)民需用石油に限り禁輸を暫定的に3カ月停止し、その後は交渉次第で延長する(2)日本軍は南部仏印から撤兵する−−という「暫定協定案」を用意していた。だが中国が強く反対。チャーチル英首相も同調し、結局提示は見送られた。スティムソン陸軍長官から、日本の大輸送船団がインドシナへ向け航行中であることを聞いたルーズベルト大統領が激怒したため、という説もある。東条は敗戦後、「あれ(協定案)が来ればなあ」と悔やんだという。

 ●避戦の可能性

 ハル・ノートが開戦につながる「最後通告(通牒(つうちょう))」だったかどうかは、当時から議論がある。外務省を退職していた吉田茂は「最後通牒ではない」と、東郷外相に交渉継続を訴えた。問題の中国撤兵も「事実上、満州は除外されていた」(井上教授)。秦氏も「中国からすぐに出て行けという内容ではない。国際情勢をにらみながら対応していれば、活路が見えた」と話す。

 真珠湾奇襲の直前、ソ連軍は独軍への反転大攻勢を始めていた。ハル・ノートをたたき台として交渉を続けていれば、独軍の苦戦が明らかになり、日本の戦略は足元から揺らぐ。日本は開戦に踏み切れなかったかもしれない。

 ●暴走の教訓とは

 70年前、破滅的な戦争へと突き進んだ歴史から、後世の私たちは何を学ぶべきだろうか。

 国策決定者たちは、自分たちに好都合な情報を集め、希望的観測を続けた。その結果、独ソ戦の勃発や米国による石油禁輸など「想定外」の事態によって、窮地に追い込まれた。彼らが戦争へと前のめりになる中で、避戦を模索し続けた者も、少数ながらいた。国家は、それをくみ取れなかったのだ。

 今年、東京電力福島第1原発の事故が発生。国策である原発推進の危険性を指摘する声は昔からあったが、生かされなかった。「原発は安全」という希望的観測は、「想定外」の巨大地震と大津波で崩壊した。

 国策決定者・組織は時に、取り返しのつかない判断ミスを犯すものだ。しかし、今昔のミスに違う点もある。

 開戦という国策決定には軍官僚や宮廷政治家ら、国民が選ぶことのできない者たちが大きな役割を占めた。当時、女性に参政権はない。国策に反対する言論の自由もなかった。

 戦後、国民の権利は増大した。国家を運営する官僚は選べないが、政治家と政党を選ぶことはできる。戦前に比べ権限が強化された首相も、間接的にではあるが選出が可能だ。

 それだけに、私たち選ぶ側の責任は大きい。戦争の惨禍で今も多くの人々が苦しんでいるように、選択失敗のツケは後世にまで累を及ぼすことを肝に銘じたい。
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15凡人:2011/12/08(木) 02:07:44
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 ◇「生きて帰れぬ」覚悟−−真珠湾攻撃隊
 前田武さん(90)は空母「加賀」の97式艦上攻撃機(艦攻、3人乗り)の偵察員だった。艦攻は800キロの魚雷を抱いていた。

 真珠湾の深さは平均およそ12メートル。魚雷は投下すると50メートル程度潜るため攻撃は不可能だが、日本海軍は浅深度魚雷を開発した。さらに海面10メートルほどの低空から投下するため、搭乗員に猛訓練を課した。鹿児島湾などでの訓練は「土曜も日曜もなかった。嫌になるほど繰り返しやった」。

 「浅深度魚雷は40本ほどしかなく、必ず当てられる者しか乗れなかった。名誉でしたね」。出航前、上官に「家族とお別れしてこい」と言われ、「戦争だ。シンガポール攻撃か」と話し合った。11月26日、機動部隊は択捉島の単冠(ひとかっぷ)湾を出撃した。そこで目的地を知らされたが、「アメリカとの和平が成立すれば帰る」とも言われた。「戦争はしない方がいい」と思った。

 発艦するとき「生きては帰れないだろうな」と覚悟した。狙いは米戦艦ウェストバージニア。「魚雷が当たった瞬間、泥水がばーっと上がってきて、飛行機の中に入った。ふつうなら青い水が上がってくるのに」。「奇想天外な作戦」は成功した。

 前田さんはその後ミッドウェー沖海戦、沖縄戦も生き抜いた。

 ◇「政府広報機関」新聞の責任
 東京日日新聞(現毎日新聞)は8日の夕刊(日付は9日)で、1面トップに昭和天皇の詔勅を掲載した。詔勅は中国の蒋介石政権を「東亜ノ平和ヲ攪乱(かくらん)」、米英を「東洋制覇」をもくろんでいると批判。「東亜永遠ノ平和ヲ確立シ以(もっ)テ帝国ノ光栄ヲ保全セムコトヲ期ス」などとした。続いて「英米の暴政を排し/東亜の本然を復す」との見出しの記事で「軍官民一体となって国難を突破する用意は全く成った」「真の平和を期待する明日の世界のために不退転の決意と不屈の努力を傾倒する」と記した。政府声明をそのまま載せ、政府支持一色の紙面だ。

 ノンフィクション作家の保阪正康さんは開戦の経緯における新聞の責任を鋭く指摘する。「当時の新聞社は政府の広報機関。多少の例外はあるが、記者はジャーナリストではなく宣伝要員だった。同情すべき点もあるが、今日の教訓にすべきだ」

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 ◇主な参考文献(順不同)
 新名丈夫編「海軍戦争検討会議記録」(毎日新聞社)▽五味川純平「御前会議」(文春文庫)▽半藤一利、加藤陽子「昭和史裁判」(文芸春秋)▽吉田裕「アジア・太平洋戦争」(岩波新書)▽井口武夫「開戦神話」(中公文庫)▽古川隆久「昭和天皇」(中公新書)▽山田朗「昭和天皇の軍事思想と戦略」(校倉書房)▽須藤眞志「日米開戦外交の研究」(慶応通信)▽保阪正康「昭和陸軍の研究(上)」(朝日文庫)▽秦郁彦「統帥権と帝国陸海軍の時代」(平凡社新書)▽防衛庁防衛研修所戦史室編「戦史叢書 大本営陸軍部 大東亜戦争開戦経緯<5>」(朝雲新聞社)▽寺崎英成、マリコ・テラサキ・ミラー編著「昭和天皇独白録」(文芸春秋)▽コーデル・ハル「回想録」(朝日新聞社訳・朝日新聞社)▽参謀本部編「杉山メモ(上)」(原書房)▽ジョセフ・C・グルー「滞日十年(下)」(石川欣一訳・毎日新聞社)
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