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女子高生コンクリ詰め殺人事件

526無精髭:2010/05/31(月) 01:24:43
ですが、もっと大事なことは、浅野氏が説くところの暴力とはなべて性暴力的であるという主張も含め、あらゆる言語事象のうちに暴力的徴候を
見出してしまう浅野氏のこの論考自体が、すでに氏自身が考察対象とする、言語による暴力の影響を免れていないのではないかということです。
にもかかわらず浅野氏は、暴力という事象を言語化しようとする意思のなかに必然的に生じてしまうとされる新しい暴力についての、最初の発見者
としての特権を無反省に行使しているように思われるのです。それは浅野氏の論考が、まだ誰の先入見にも捉えられていない、元のままの、言語化
以前の、言わば初発の暴力というものを認識した者でなければ説けないような性質の理論だからです。自身の理論で批判されているのが概念や論理
形式のようなある言語的対象そのものである場合、その批判対象に自身の理論も含めなければ、更には批判対象である他者の言説の水準に自身の
論法を照らし合わせなければ、一言でいうとフェアではありませんので、同じ言語であるにもかかわらず、自分の言葉を他人の言葉から原理的に
区別して別格に扱ってしまうということとなり、結果的に自説の特権性は高まるでしょうが、普遍性や妥当性はその点でマイナスとなるでしょう。
結局のところ、棚上げにされた前者で後者を規定してしまうならば、そのような一方的な言説における普遍性などはなはだ怪しいものであると
いわざるを得ません。すくなくとも、暴力を批判する浅野氏の論考もあらたな暴力を生んでいると主張することが、なお言語によって可能だと
思われることに対して、浅野氏は反論しなければならないでしょう。※

※たとえば、フェミニズム♯によってその言説・運動の最終的な目標として据えられたもの(最終的とまでは言えないかもしれないが、一例を
挙げるなら、社会での女性の地位向上などに帰結する法整備や具体的な政策)が成就すると必然的に男性の権威が失墜するのであれば、翻って
男性の暴力に対する女性の報復が成功したという見方ができるでしょうし、そこから新たに男性に対する暴力が生まれたのではないかと類推する
ことも出来るかと思われます。あるいは次のような疑問も生ずるでしょう。それは、暴力の本質が性暴力なら、いうまでもなく女性による暴力も
現実にあるのだから、その場合の(男性的でない)性暴力とははたして何なのか、女性の場合においてもわざわざポルノなり性暴力なりと
言わなければならない必要はどこにあるのか、などといったことですが、浅野氏の論考のようなものを読んでこう問い返すことは、自然なことだと
思うのです。しかしそれよりも大事だと思われるのは、言語の本質に暴力性を見出したとして、それを語るのも同じ言語である以上は、
その批判的言説も、言語の本質であるとされる暴力性を免れることはけっして出来ないはずだということです。くどいようですが。

♯フェミニズムが総て上記に該当する(言い尽くされる)ものだとは言いませんし、事実色々と流派や学説・論者間の違いはあるだろうと思います。
ちなみに蛇足ですが、女性による男性蔑視のようなものに対して己を振り返ってみることによる戒めと反発から、男性学が生まれる土壌も整ったみたいで。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B7%E6%80%A7%E5%AD%A6

現代思想で「暴力」を積極的に考察(研究)対象としたのは、まあ色々とおりますが、代表的なのはルネ・ジラールとか、日本では故・今村仁司氏
などですか。今村氏は、boroさんが昨年の8月にウィークリーブックで紹介してくれた『暴力と人間存在』(筑摩書房)でも著者の一人として
名を連ねていますけども、とりあえずそれはおいといて、浅野氏の論法のバックボーンには、フェミニズムやジェンダー論やエンパワーメント論
などの他に、何やらポスト構造主義の影がチラチラしているような・・・。今村氏らによる先行研究から浅野氏らフェミニストへの直接的影響に
関しては知識がないので何とも言えませんが、少なくとも認識の根本的な転回を迫る現代思想の文脈については、明らかにその洗礼を受けて
おりましょう。また、現代思想によって捉え返された<暴力>の概念が氏の念頭にあることも覚えておいて良いでしょう。でないと、先にあげた
論考など意味不明の念仏としか思えないでしょうから。


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