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女子高生コンクリ詰め殺人事件

278ハルハル:2005/03/18(金) 09:40:38
初めて書きます。よろしくお願いします。
私はこの事件を今回の神作再犯事件から知ったのですが、事件の概要をこのHPで見たときはすごい衝撃を受けました。
昨日、『17歳の殺人者』と『かげろうの家』を手に入れました。『かげろう・・・』は出版社でも在庫がなく、ネットのユーズド商品を買ったのですが、まだどちらも読んでいません。
今のところ、被害者にも加害者にも感情移入しない、事件の概要を知っているというだけの立場で話させていただきたいと思います。
私がこの事件で受けた衝撃というのは、単純にいうと、「殺人・性犯罪以上に被害者を地獄に落とす犯罪行為があった」ということです。
加害者少年は、確かに監禁した当初は性犯罪・レイプ目的だったかもしれません。それが短期か長期かということすら考えなかったのではないかと思います。
ただ、短絡的に「事件の発端」を作ったに過ぎないと思います。
被害者にしてみれば、性行為(たとえ、どんなに荒っぽい体位であったり、回数であったりしても)に耐えれば、命は保証されるのだ、というわずかな希望があったはずです。
ところが事態は、性犯罪を通り越してしまいました。性器に異物を入れ、火をつけるなんていうのは、倒錯した性的嗜好を通り過ぎて虐待です。ただ、それがその部位が人間の体のなかで、少年たちの興味を一番そそるものだったから、というに過ぎません。
結果として彼らは彼女を死に至らしめましたが、それは、いつのまにかゴールテープを切っていたというだけで、殺人を快楽の対象として認識していた酒鬼薔薇とは根本的に異なります。
彼女が生きている限り、彼らは彼女を想像もできないような虐待で痛め続けたでしょう。
彼女にしてみれば、「これさえ我慢すれば」というすがりつく希望が失われたということです。それどころか、生きて解放されるという彼女の道標の、「生きる」という部分がある限り、彼らは彼女を手放さず、虐待し続け、犯行がばれることを怖れて解放もしないだろうということを彼女が悟ったとしたら、彼女に残されているのは、死しかなかったのではないでしょうか。
「殺して」と言った彼女にはもう、舌をかんで死ぬ余力さえなかったのです。
私は絶望という言葉が、これほどの実感を持って迫ってくる事件を、今まで知りませんでした。

しかも、この事件が帯びている絶望はこの事件の社会的解決を持って払拭されたわけではありません。
コトが性犯罪としての異常性に帰着するのなら、私たちにはまだ救いがあったのだと思います。
犯罪を誘発させるまでの性的嗜好の倒錯を持つ人間は、少なくとも自分の周りにはいないだろう、となんとなく安心できるからです。
でも、虐待は違います。昨今、幼児虐待を中心に随分報道がなされるようになりましたが、虐待という犯罪は親子だけでなく、夫婦、介護者と老人、身近な人間関係の中での強者弱者の間、どこでも起こりうることです。
私の住む地方でも、母親が子供を冬の夜の牧場に置き去りにしてきたという事件が報道されました。
つまり、程度が異常なだけで、同じような事件はそこかしこで起きているということなのです。
犯行の41日間、当初のレイプ犯罪でもなく、結果としてのコンクリ詰めという異常性でもなく、その間の凄絶な虐待、それこそが、現代に通じている『崩壊の序曲』ではないかと思われます。
性犯罪であるなら、主に男性が女性に、というベクトルが社会にある種の安心感をもたらしますが、虐待は、先ほども書いたように、どこで誰が起こしても不思議ではない犯罪なのです。
現に、今回の再犯は対象が男性でした。

犯罪に至る因子をその犯罪者が生活してきた環境に見出そうとするのは、一般人が犯罪者と自分たちとを隔てる壁を設定したいからです。
どんな環境で育とうが、暮らそうが、犯罪に至るか至らないかは、個人の理性と良心(陳腐な表現ですが)の問題です。
犯罪に加担しなければ自分がやられるというのであれば、そこで自分がやられることで犯罪を生み出さないか、自分がやられることを回避して犯罪を生み出すかという選択肢を、自分が選んでいるということです。
そこに情状酌量を与えるのは、甘くはないのでしょうか。コトが他人の命に関わることになればなおさらです。

駄文を連ねましたが、この事件で私が最初に感じたことはこういったことでした。


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