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死刑制度についてひと言お願いします

2979無精髭:2011/01/31(月) 16:54:23
犯罪被害の当事者である被害者本人と間接的被害を被った遺族との違いについて、殺された者と遺された者の
どちらが辛いかというと、比較できないからこそ、本当は両者ともそれぞれ固有で互いに異質な苦しみをもつと
捉えることが正しい選択なのでしょうが、私はあえて遺された者のほうが辛いと言いたいです。死者の苦しみは
死という経験の一回性によって想像を絶するが、被害者の苦しみは共有はしがたいほど峻烈だがまだ現世の苦しみ
として理解できるところがあります。それがおそらく、共通する経験とか価値の共有あるいは価値観の重なり
というものなのかも知れません。つまり私が言う「同情」の契機になるものです※。
 
 ※ただし、これは同情の対象が犯罪被害者遺族である場合に限られるだろう。犯罪被害者が死者の場合、
 その契機を以って犯罪被害者遺族(あるいは被害者と特別親しかった者)に対する同情心から犯罪被害者
 本人に対する同情へと移行できるであろうか?

言い換えると、死者の苦しみは単なる「苦しみ」という感情では掬いきれないほど、また「苦しみ」という
言語の意味には還元しえないほど(「言葉ではいえない」というアレ)、過剰ですが、死者を想うことから
生ずる苦しみは、どうにかこうにか親しい者や似た境遇にある者や同情を寄せる者とに分かち合うことが
出来そうだし、だからこそ「苦しみ」という言語の公共的な意味の内に収まって、さまざまな人々に伝達
されるのです。※

 ※上記の註で私が示した分類に従うとすれば、被害者本人の苦しみは「超越的」であり、遺族のほうは
  「超越論的」であるということになるかも知れませんね。

死者と遺された者はお互いに愛する者から引き離されたと言える? 遺族と同様、死者も彼岸で別離の悲しみに
打ちひしがれて、さぞつらいことだろうというふうに同情する? あるいは、殺される寸前に愛する者の顔が脳裏に
浮かび、もう助からないと思って―――今生の別れを悟って、心が引き裂かれる思いがしたであろう、さぞ無念だったろう、
というふうに? 私たちと被害者とに共通するもの、相互において同情のきっかけとなるものは、命の存在であるが、
同情が起こるには、同情するものとされるものとの一方的な関係においても、客観的に見れば、相互の感情が交換
可能なものでなければならないのです。被害者の命と私たちの命とは交換可能と見なせるでしょうか?

被害者の苦しみと遺族の苦しみを比較すると、前者が私的経験(絶対に他者には共有されえない・
自分自身だけの経験)を問題にせざるをえないのに対し、後者は他者との関係を前提とし、
それに依存した経験にしか生まれないことが分かります。すなわち、自分自身が原因となって
生ずるような感情ではなく、あくまで他者の苦しみを想うことから生まれる感情なのです。
隣人(他者)愛というものにどうしてもつきまとう側面ですね。

ですが、鋭い方はもうお気づきかと思いますが、私の同情論というのは、後者のような経験にさえ、
前者のような私的経験に含まれるような要素を見出すことができるのではないか、という疑問の上に
立てられております。以上の点については、まだまだ考察が足りません。

「死刑囚に会うの無理ですか」娘を奪われつらさ伝えたい遺族
12月12日7時59分配信 読売新聞
http://shadow9.seesaa.net/article/111105431.html

闇サイト殺人 被害者、最後のメッセージは「2960」
http://www2.odn.ne.jp/rie_isogai/081208.htm


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