したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | |

死刑制度についてひと言お願いします

2978無精髭:2011/01/31(月) 16:52:33
本村氏の名前が出てきたので、そういえばと思い、色々と覚え書きを溜め込んでいたフォルダを漁って
いて見つけたのが以下の文章。2008年の12月頃に書いたものですが、良い機会なので投稿します。

<ここから>

最初は終身刑望んだ母「やっぱり犯人の命をください」
12月13日7時32分配信 読売新聞
http://blog.goo.ne.jp/kanayame_47/e/ff634d242a243d80cbea2d8fb1aad791
http://shadow9.seesaa.net/article/111154177.html

ここにシェンさんの「赦し」の限界性があるのではないかなぁ。シェンさん個人の道徳感情を超えて
普遍的な社会道徳になりうるかも知れないと、漠然ながら思っていたのですが。少なくとも私には、
同情のリミット機能というか感情移入のための想像力を養うことで、加害者側の視点に立つことも
可能だという理屈で十分納得できる考えだったのですが、Kenさんが仰るようにこの考えを
「面識もない被害者遺族に面と向かって」「とうとうと語りだすのであれば」、その反応たるや
推して知るべし、ですよね。

たぶんシェンさんは、同じ自論といえども、
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/2776/1211686553/60
で見せてくれた信条と、合理的・論理的な死刑廃止論というものを、プライベートとパブリックという
観点から分けておられることでしょう。これは死刑存置・廃止という立場の違いを問わず、国民による
国家権力のコントロールと犯罪被害者(遺族)救済との2つの課題に分けて、死刑問題の解決を
もっぱら前者の目的に繋がるものとして考える上で、とても重要な心構えとなります。

しかし、感情を括弧に入れて論理に徹するという手段だけで、はたして皆にとっての
落としどころを生み出すことができるのか、少なからず疑問に思えてきました。

言語(広く言って文法、狭く言うと論理)を共有するには、言語に対応する日常を認識する必要があり、
その上で議論や対話における対等な関係が成り立つのです。加害者と対等に話す(コミュニケートし合う)
のが感情面や技術面においても難しい場合が多い(犯罪者に接見する専門家の苦労が想像できます)のと
同様に、被害者と対等に話す(コミュニケートし合う)のもまた、さまざまな障壁を乗り越えていかなければ
ならないほど困難を極める行為のはずです(ここらへんのことに鈍感で、被害者側に同情し・加害者を憎む
というような、単純な対立構図でしか物事の是非を考えられないような非論理的な人は、その後でどんなに
いい発言をしたとしても、実際に社会的に善良な生活を送っていたとしても、その認識を改めない限り、
私はその人への評価を留保し続けるでしょう。彼(彼女)は存在しないに等しいという偏見を持ちながら)。

私の上記したようなことなんぞ、シェンさんは百も承知でしょうがね。つまり、同じ土台に立たなければ、
話は通じないのだと。論理、すなわち高度化したコミュニケーションとしての言語は、私たちがおのおの
生きる固有の生から離れて、社会生活(他者との共同生活)を営むなかで生まれます。さらにその生活を
超越したところから操作する法という権力としての機能が現われて、初めて日常使用にも耐えうるもの
として完成するわけです。言語には自分と他者を同一視する主観という概念を記述するための役割※と、
客観の中でも国家とか道徳とかいった(主観を持たない存在といったほうがいくらか分かりやすいかも)
超越的な概念を記述するための役割が備わっています※※。これら「自己」「他者」「超越者(超越概念)」
の三者の存在を記述するのが言葉の本質的な役割であり、これらを記述しうることが言語の公共性を
自ら保障するのです。

 ※他人について語れなければ、自分を言語で表現することもできない(私的言語といったものが
  可能かどうか)という哲学的問題もありますが。

 ※※ちなみに「超越論的(独:transzendental)」という言葉もあって、これは簡単に言うと、
   認識一般の限界(どこからどこまで認識できて、どこから先が認識できない領域なのか)を
   見定めるようなメタ認識のことです。対して、「超越的(独:transzendent)」とは
   その名の通り、言語あるいは論理を超越したもの、言い換えれば認識・感覚の外にあると
   される(無論ないともいえます)ものを形容する場合に用います。

「生きていける命をほかからの力で奪うことに抵抗を感じてい」たあの子なら死刑制度に反対していた
であろうと考える母親が、同じ遺族である連れ添いの考えに背いてまで押し通そうとした、死者への
尊重の念には痛ましいまでに切実なものを感じます。もちろん、母親が忖度する被害者の考えは、
犯罪に遭う前の被害者の声を頼りに推測したものに過ぎませんが。


新着レスの表示


名前: E-mail(省略可)

※書き込む際の注意事項はこちら

※画像アップローダーはこちら

(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)

掲示板管理者へ連絡 無料レンタル掲示板