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死刑制度についてひと言お願いします
2977
:
無精髭
:2011/01/31(月) 16:46:10
死刑賛成の理由の一つに、「被害者が望むから」というのがあると思うんですが、
こういう理由を挙げる人の考えには、「自分が殺された場合、遺された人たちには、
自分が加害者に対して死刑を望んでいると考えてもらって構わない」といった別の
側面があるのかも知れません。こういう場合、自分が死刑を望もうが、被害者が
死刑を望もうが、おそらくどっちでもいいはずでしょう。自分の考えと被害者の
考えとがごっちゃになってるんですから。
私が思うに、被害者本人の望みと、遺された者の望みとの違いが無視されがちなのは、
誰もが被害者になりうるという可能性と、この国において多くの人が死刑に賛成である
という事実があるからではないでしょうか。すなわち、遺された者もいつ被害者になっても
おかしくないのだから、自分の望みを参考に被害者の望みを推し量ってもいいはずだし、
この国では死刑賛成派が「ほとんど」だから、被害者が加害者に対して死刑を望んで
いるという推測が誤っている確率も「ほとんど」ないのだ、というわけです。
「自分の欲望のために殺すこと」は論外だとしても、「自分の欲望のために死刑を望むこと」
は開き直れるというか、確信犯的というか、とても自覚的な言動じゃないかと思うんですよ。
ですから、復讐心に燃える人が「俺は、殺されたアイツのためじゃなく、自分のために復讐
したかったのか…」と気が付くことには何らかの意味があるかも知れませんが、死刑を望む人が
「俺は、(中略)自分のために死刑を望んでいたのか…」と気が付くことにはあまり意味が
ないのではないかと。
ジャック・ラカンじゃないですが、欲望とは他人の欲望であり(私は他者の欲望を欲望する)、
一般に他人が欲しているから自分も欲するという面があるから、その意味で自分の欲望は他者の
欲望へと還元されるのでしょう(ちなみに欲求と欲望は異なる※)。同様に、死刑賛成という欲望は
自分の欲望ではなく、他人の欲望でもある。そして、自分や他人といった個々人の欲望というよりは、
多くの人の欲望の総体という方がふさわしいのだと※※。また、誰もが被害者になりうるのだから、
死刑賛成への意思は、自分の欲望であっても他人の欲望であってもいいことになるのだと。
※
http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C6%B0%CA%AA%B2%BD
欲求とは、動物的、生理学的なもので、しばしばそれが目指すところと対象とが合致する。
欲求が満たされるのは欲求の対象との関係においてである。対して欲望とは、人間固有の
もの、精神的・感情的なもので、それが目指すところと対象とが合致しない。それは、
欲望の対象との関係において満たされることなく続く。人は、他者の欲望に欲望されることを
欲望し、他者の欲望を欲望することで欲望を自ら持続させる。このような循環回路の存在を、
つまり欲望が永遠に止まないことを欲望するのである。欲望が満たされる時よりも、まさに
欲望している時のほうが、快楽は強いのだから。欲求の場合はその逆であろう。
※※これが少なからず、ナチスによるユダヤ人迫害を連想させるにせよ、ナチスの側に
いる間は、人々は自らの欲望の危険性に容易には気が付けないのかも知れません。
『茶色の朝』 フランク・パブロフ/著
http://www.tunnel-company.com/data/matinbrun.pdf
仮に社会が茶色に染まってしまったら、ナチスの側に立たなければ危険だから、
ますます人々はナチスにしがみ付くことになるのではないかと。そして、自分が
ユダヤ人の側に立たされてからでは、後悔先に立たずです。
憲法で内心の自由が保障されている手前、「自分の欲望のために死刑を望む」のは勝手なの
ですが、問題は、「自分の欲望のために死刑を望む」ということを根拠にして、法制度の是非
を巡る、(人類にとって普遍的と言う意味で)思想的な議論を展開できるのか、ということです。
しかし、えてして「自分の欲望のために死刑を望む」人たちは、そういう議論の場で「あなたは
被害者遺族に対して『あなたは自分の欲望のために死刑を望んでいるのだろう?』と質問できるのか?」
とか「『自分の欲望のために死刑を望む』ことが根拠にならないというのは、被害者や遺族を
議論から排除するも同然」とか発言するものなのです。
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