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テロを根絶するためには・・・・

1⊂(・Θ・)⊃Piyo:2004/09/14(火) 19:34
初めまして⊂(・Θ・)⊃Piyoと申します。
以後よろしくお願いします。

さて、チェチェンでの学校占拠事件が最悪の終結となりました。
各メディアでは連日、被害にあった女性や子供達の映像が流れていました。
それらは総じてテロリストの非情さを訴えています。
でも、私の目はそれを冷ややかに見つめていました。
チェチェンでは、94年12月のロシア軍侵攻以来、何度もあった光景だからです。

今、各国・各メディアは盛んに「テロ根絶のために、テロとの対決」を叫んでます。
しかし、果たしてそれでテロを根絶できるのでしょうか。
9.11以来、「テロには屈せず、断固対決」世界中がそう叫んでいます。
しかし、むしろテロの有効性が立証され増加傾向にあるように思えるのです。
本当にテロを根絶したいのであれば、
我々は今一度問題の本質を見つめ直すべきではないでしょうか。

●「いかなる理由があろうと、女子供を人質に取り、殺害することは赦されない」
では、第2次チェチェン戦争でロシア軍が無差別爆撃でチェチェン市民を
殺害したことは赦されるのでしょうか。
宣戦布告もなく、いきなり市場に爆弾を落とし市民を虐殺することは赦せますか。
イスラエルでパレスチナ人が差別、弾圧、虐殺されていることは赦されるのでしょうか。
テロリストはこう思っているでしょう。
「先に手を出したのは奴らだ」

●「非対称型の新しい戦争形態」
そう言われて久しい。しかし、本当にそうでしょうか?
テロを行う側は、軍事的にも経済的にも圧倒的に劣勢にあります。
まともな軍隊を組織できず、ゲリラ(武装民兵)主体による抵抗組織が精一杯です。
今回の旅客機爆破テロを見ても、パレスチナでの自爆テロを見ても、
自爆テロを行う人は、ほとんどが生きることに絶望した一般市民です。
民間人が戦うには軍隊は強すぎて相手にならない。だから守りの薄い民間人を狙う。
テロを行う側にすれば、民間人が民間人を攻撃するのだから対称な戦いでしょう。
テロを行う側は、民間人も抵抗組織も差別と弾圧にさらされています。
また、メディアに対する影響力も弱いですから、
宣伝戦で悪のイメージを植え付けられてしまいます。
軍隊に任せて安全なところから自分たちを弾圧している敵国の民間人に、
自分たちの境遇を知ってもらい、弾圧をやめてもらうためには、
民間人を狙うことは仕方がないことなのではないでしょうか。

テロリストVS軍隊ではなく、国家(民族)VS国家の戦いと考えれば、
非対称とは言えないのではないでしょうか。
一部の犯罪者の仕業にしてしまうのは、問題の本質のすり替えだと思います。

●「いかなる理由があろうと暴力で要求を通すことは許されない」
これは、その通りでしょう。
もしそれを許せば、強者が弱者を支配することを容認することにつながるからです。
しかし強者の弱者に対する弾圧を無視して、弱者の抵抗のみを非難するのであれば
テロはなくならないと思います。

民間人、女子供、無差別・・・・一般にテロはこういった理由から否定されます。
しかし、調べてみればわかる。テロリスト達も軍隊によって家族を失っているのです。

9.11が起こったとき、私も怒りと悲しみにテロリスト達を憎みました。
今も、無差別テロという手段を悲しく思い、否定されるべきだとは思います。
しかし9.11とチェチェンやパレスチナにおけるテロは違うと思います。
9.11は未だに正式な犯行声明も政治的要求もなされていないからです。
差別や弾圧の歴史に根差した民族解放とは分けて考えるべきではないでしょうか。

今の私には民族解放を掲げるテロリスト達を憎むことができません。
テロリストを生み出す状況を憎みます。

みなさんのご意見をお聞かせください。

2イカフライ:2004/09/14(火) 20:21
 Piyoさん、はじめまして。
>今の私には民族解放を掲げるテロリスト達を憎むことができません。
>テロリストを生み出す状況を憎みます。

深く深く賛同します。

3⊂(・Θ・)⊃Piyo:2004/09/14(火) 22:18
>イカフライ様
早速のお返事ありがとうございます。
これからも平和について一緒に考えていただければ幸いです。

>ご覧の皆様
現在発売中の「DAYS JAPAN」9月号でチェチェンの現状の写真と
レポートが載っています。
戦後の東京のような焼け野原になったグロズヌイ市街や
塹壕にゴミのようにうち捨てられた死体の山の写真を見ると、
これが人間のやることかと涙が出ます。
機会があればご覧ください。

4緑装薬4 </b><font color=#800000>(aL5K3vps)</font><b>:2004/09/21(火) 21:29
>1
「国家」という窓口を失う過程とわ、なんなんだろうねぇ。

なぜ「国家」を失い、「テロ」という手段をとらなくてはならないんだろうねぇ。

「国家」というものを失うことの恐ろしさを感じるね。

5ヤスツ </b><font color=#800000>(CnaUXqoo)</font><b>:2004/09/22(水) 02:40
読むのは大変でしょうが、類似スレとして談話室には

テロ対策
http://jbbs.livedoor.com/bbs/read.cgi/study/2500/1080104485/

というスレがあります。


一連のテロについては、「国を持たない」または「自力で自立/独立できなかった民族」による独立運動と見ることができるでしょう。
民族(または、何らかの共通項に基づいた集団)が、「独立する」「国を持とうとする」という行動が、すでにその地域を実効支配(支配、という言い方は本来悪意ある表現ではないのですが、最近は支配=悪のイメージが強い人もいるかもしれません)している国/政府によって阻止されるという図式が、昨今の「守るべき国土を持たないテロリストと、守るべき国土/国民を持つ国家の戦い」=テロという図式を形作っているものと思います。

テロを消滅させる方法については、過去にもアイデアが出されてきていると思いますが、改めて挙げるとすると以下の通りです。

・テロリスト(=独立を目指す人々)の要求を実行支配者が全面的に受け入れ、統治を放棄する。→テロリスト同士が武力による権力闘争を始め、内戦が長引く(1945年以後に独立した途上国の多くは、このパターンで今も苦しんでいる)
・隣人(隣国)に干渉する、されることが習慣や利益の対立や摩擦を生む。→隣人と接触できないくらい離れる、距離を置いて交流しない。
・干渉してくる隣人を消滅させてしまうことで、対立や摩擦の発生を根本から排除する。→ヒトラーなどが行った民族浄化がこれに当たるが、この方法は国際的に禁止されている。
・国家という集団/組織/共同体の中に、異文化/異民族を取りこみ、行動を強制することが対立や摩擦を生む。→国家を解体し、地方自治体を含めた一切の「共同体」の構成を禁止し、全世界の人類は家族単位個人単位で自立・独立し、互いに干渉しあわない。→完全アナーキズム。

6ヤスツ </b><font color=#800000>(CnaUXqoo)</font><b>:2004/09/22(水) 02:54
>>3
戦争やテロによって被害者が出ることは悲惨でありますし、死体を見て感傷を抱かない人は少ないと思います。
ただ、戦争もテロも、何らかの目的達成のための「手段」のひとつに過ぎません。
目的を肯定して手段を否定するのであれば、目的達成のためにもっと効率がよい、またはもっと許容できる別の手段を提示するべきでしょう。

過去に戦争が横行した時代があったのは、それは戦争が領土拡大にもっとも効率が良かったからだと思います。
戦争の規模が、フランス革命後、そして第一次大戦から第二次大戦に掛けて膨張したのは、手段(技術と戦略思想、戦術思想)の進化=効率化のためであったと思います。

現代において、テロが横行しているのは、「相手を言いなりにさせる」ために、もっとも効率が良いからでしょう。一人兵士を捕まえて首を切る、または切ると脅せば、数万倍もの規模と能力を持った他国の意志を変えることができるわけですから、効率の良さという点で今のところこれを上回る方法はないでしょう。
過去に、IRAなどのテロ、大韓帝国時代の伊藤博文暗殺などは「要人暗殺」という方法でした。これは、意志決定をする権限を持つ上級の人間を殺すことで、相手の意志決定の機会に直接影響を与えるというものでした。
しかし、要人は手厚く警護されていますし、ターゲットが一人であるが故に、防御も頑強で狙いにくくなっています。
ですから、「防御がしづらく、警護されておらず、殺害しやすく、それでいてそれを本来守るべきはずだった者にダメージを与える方法」として、昨今流行の無差別テロが流行しています。
これも、「テロをすれば、相手(国)は言うことを聞く」という前例が作られてしまったこと、そしてそれが「効率がよい」からこそ行われています。

すべては効率の問題なのだと思います。
投資対効果と考えても結構です。
ミサイルを買って正面から軍事作戦をするより、飛行機の操縦方法を習って乗っ取った旅客機をぶつける方が、安上がりで効率がいいから911は起きました。
プーチンを殺害する危険を冒すより、無抵抗な子供を殺した方が効率がいいから、チェチェンのテロは起きました。

裏を返せば、大国による空爆も同様でしょう。
自国の兵士を地上に投入する前に、空爆(二次大戦以前は砲撃、支援砲撃でした。この戦術は、ナポレオン時代に完成を見、今も爆発物の運搬手段を変えて継承されています。効率がいいのです)するのは、地上部隊の損耗を最小限にするためです。これも効率を考えた結果の戦術です。

目的には理解を示すが、手段は肯定できないというお気持ちはお察しします。
であるならば、「目的が崇高なのだから手段も認めるべきだ」や「手段が残忍だからやめるべきだ」ではなく、「より効率のいい、目的達成の方法」を提示することが、現在お嘆きになっている「効率のいい人の殺し方の進化」を止めることに繋がるものと思います。

7ヤスツ </b><font color=#800000>(CnaUXqoo)</font><b>:2004/09/22(水) 03:05
なお、個人的には、とした上で私の意見を述べます。

「抑圧されているし、いろいろ不満はあるけれども、秩序が保たれ安定し平和の世界」
と、
「いつ死ぬかわからず、秩序も安定もない戦いの世界だが、何をするのも(そして、されるのも)自由である世界」

の、どちらが幸せだと思いますか?

私は、もし「平和」が優先事項であるならば、前者「抑圧されて不自由でも平和な世界」を選ぶべきだと思います。
一方で「自由」が優先事項であるならば、後者「平和はなく命の不安が常にあるけれども自由な世界」を選ぶべきだと思います。

テロリストと呼ばれる民族独立運動をする人々は、個人と民族の信条を重ね合わせて、後者の選択をしているのでしょう。
それは彼らの自由かもしれませんが、テロの犠牲になった人々は、彼らと同じ選択をしているわけではありません。
では、そうした「不自由でも平和な世界」を望む人と、「平和でなくても自由な世界」を望む人が対立した場合、どちらを優先させるべきだと思いますか?

不思議なのは、平和を希求する人ほど自由を強く主張し、抑圧を伴った平和(秩序の安定)を唾棄しようとすることにあります。
テロリストと呼ばれる民族独立運動の「目的」を支持する人は、「目的」と「手段」のどちらが優先されるべきかを選ばなければならないと思います。
手段を拒否することで目的が達成されなくなるという場合は、「代替手段」を示すか、目的を諦めるかのどちらかとすべきでしょう。
また、代替手段を示せないうちは、取れる現実的な方法(=被害者を増やさないことを第一義にするなら)は、「目的の否定」に集約されることでしょう。

つまり、「旧支配者の支配をそのまま受け、旧支配者に従うことで安定を得る」しかないだろう、と。
旧支配者への抵抗が何よりも優先する、という考えを支持するなら、テロという手段によって起きた全ての結果も肯定しなければならないのでは、と思ってみますがいかがなものでしょう。


ちなみに、「抑圧された平和」と「死と隣り合わせの自由」の二択について言えば、私が個人の立場ではなく為政者の立場でそれを選べと言われたなら、「抑圧してでも平和(安定)」を選ぶでしょう。
それを阻害するものがあった場合、全力で排除する、ということになるでしょうね。

8イカフライ:2004/09/22(水) 07:25
>>4

>「国家」というものを失うことの恐ろしさを感じるね。

「国家」という本来は国民を守るべき存在が,ある特定の条件を持った国民にとって己に仇成す存在となる,己の権利や命を奪う敵になる。
 テロリズムという手段を取らざるを得ないのは、そういった背景がある事が多くないでしょうか?
 特に民族独立運動におけるテロリズムは。

9イカフライ:2004/09/22(水) 07:44
>>7

>「抑圧されているし、いろいろ不満はあるけれども、秩序が保たれ安定し平和の世界」
と、
>「いつ死ぬかわからず、秩序も安定もない戦いの世界だが、何をするのも(そして、されるのも)自由である世界」

の、どちらが幸せだと思いますか?

抑圧の度合いによるのではないでしょうか?
 これは、随分昔に確か柏葉さんだったと思いますが,奴隷となって生き延びるのと,戦って死ぬ,どちらが良いか?という問いを受けた記憶があります。
 個人的には戦って死んだ方が良い,と思ってしまいますが,奴隷となっても生き続けていればいつか逆転のチャンスが来る可能性があるなら,奴隷を選ぶ、とお答えしたのですが。
(その時には上手く私の主旨が通じませんでしたが,今ならおわかりいただけると思います)。

 民族解放闘争を経て独立を勝ち取り,その後、悲惨な事態になった国、というのはあります。
 アフリカの国々なんて多かれ少なかれそのパタ−ンですね。別スレで私が書いた「アフリカなんて植民地のままの方がまだ良かったんじゃないのか?」と言った人は,その惨状を見ての発言でした。
 けれど、植民地支配化で行われた事,アフリカで白人が行った事を考えると,それは「秩序が保たれた平和」だったかも知れませんが,その抑圧の大きさを考えれば私は肯定できません。

10ヤスツ </b><font color=#800000>(CnaUXqoo)</font><b>:2004/09/22(水) 12:20
>>9
何事にも「許容できることの多寡」はありますから、イカフライ女史の回答はよくわかります。
そして、問題はそこにあるとも思います。

「それでは、テロ(ことに無差別テロ)という方法は、どの程度悲惨な抑圧を受けている場合に許されるのか?(そもそも、許されるのか?)」
何事も、基準や許容範囲を示すというのは難しいことと思いますが、その許容範囲に対する「我慢の限度」が、それを覆すための方法の成否の基準にもなっているように思われます。

二次大戦以前の欧米列強による植民地経営が、差別と抑圧と搾取の上に成り立っており、当時はそうした抑圧は悪ではなかった(人権という意識が生まれていなかったわけですから、悪という認識もなかった)というのは致し方ないとして、では現在も同じように「差別意識と搾取による抑圧的支配」というのは通用するものでしょうか?
二次大戦以後、それが通用しないようになったことによって、かつての植民地が次々に旧主国から独立し、国連加盟国となっていったのでは。(そして、国連は国家間の対立の仲介だけでなく、国の独立の援助や人権問題などについても機能するよう期待されているわけですが)

それを踏まえると、仮に旧主国による再支配があった場合に、かつてのような抑圧的な搾取をしたら、旧主国(というか新たな支配国)が国際的に非難される、という環境はある程度育っているわけで、二次大戦以前のような「強国による抑圧的差別」がまかり通るとは考えにくいように思います。
それを配慮してでも「それでも、武装勢力同士が内戦に明け暮れるよりは、かつての旧主国が再支配したほうが、治安は保たれるのではないいか」というのが、所謂新帝国主義という考え方の根幹を成しているのかな、とも思います。
すべてが善意からだけ出た考えではないのでしょうけれども、アフガンを見ていると一理あるなと思ったりもしますね。(アフガンの旧主国はイギリス)


一方で、そうした問題に「その地域に住まない人間がクチバシを突っ込むべきことかどうか?」という懸念もあります。
当事国、当事者が考えるべき問題で、余計なお節介はすべきではないだろう、というような。
でも、当事国、当事者なんか無関係に、「交渉相手から譲歩を引き出すために、無関係の女子供、民間人、外国人をテロの対象にする」というのが最近の流行なんですよね。しかも効果がある。
そう考えれば、「当事者じゃないから無関係」とは言ってもいられないのが現状なわけで。
その場合に、

1)一応の統治体制を作っている政府側
2)体制破壊後の統治体制を造り得るかどうか不明な点もある反体制側→かつてならゲリラ、今ならテロリスト

という選択肢が生まれます。
レジュームチェンジの必要がある(抑圧をする者が政府側であるという場合)は、アフガンやイラクのように「他国の戦力を引き込んでの戦争」が行われ、レジュームチェンジが行われるでしょう。
一昔前(冷戦時代)なら「共産主義国の反体制勢力はアメリカが資本主義国の反体制勢力はソ連が」それぞれ支援していたと思いますが、現在はそういうスタイルも変わってきたわけで。

話が散漫になってしまいましたので一度風呂敷を畳みますが、

・抑圧を解決するための方法としてテロ(無差別テロ)は許されるのか?
・その方法としてテロ(無差別テロ)が許されるとしたら、許容範囲(対象の、または実行が許される条件)は?
・抑圧を解決するための方法としてあらゆるテロ(無差別テロ)が許されないとしたら、それに代わる効率のいい目的達成のための戦術/手段はあるか?

というところに話が戻っていきます。

11イカフライ:2004/09/23(木) 07:39
>「それでは、テロ(ことに無差別テロ)という方法は、どの程度悲惨な抑圧を受けている場合に許されるのか?(そもそも、許されるのか?)」
何事も、基準や許容範囲を示すというのは難しいことと思いますが、その許容範囲に対する「我慢の限度」が、それを覆すための方法の成否の基準にもなっているように思われます。

 許されるか許されないか,というより、そうせざるを得ない状況に追いこまれてしまった(少なくとも当人達にとっては)が為に,「許されない方法」を取ってしまうのではないでしょうか?
 それが、テロはいけないが、テロリストを攻撃することだけでは終わらないというドロ沼を招く様に思えます。

12ε=(。 ̄д ̄。)☆:*:★彡:2004/09/23(木) 07:52
> 許されるか許されないか,というより、そうせざるを得ない状況に追いこまれてしまった(少なくとも当人達にとっては)が為に,「許されない方法」を取ってしまうのではないでしょうか?
 それが、テロはいけないが、テロリストを攻撃することだけでは終わらないというドロ沼を招く様に思えます。

全くその通りだと思います。
彼らは許される範囲でやろうなどとは思っていない。
自分の命すら捨てているのですから。
「人命を粗末にしてはいけない」とか「人権がどうたら」という
「民主主義」教育も無効です。
なぜなら、人命も人権も「民主主義」によって踏みにじられてきたのだから。

13ヤスツ </b><font color=#800000>(CnaUXqoo)</font><b>:2004/09/23(木) 11:28
心情的には「追い込まれてしまったから可哀想だ」「追い込まれてしまったから仕方がないのだ」「追い込んだ方が悪いのだ」という気持ちはわからないではありません。
子供が犯罪を犯したり、生活苦から強盗をした人に対して「社会が悪いんだ」「政治が悪いんだ」というようなものですよね。それは。

では、社会や政治が悪いのだから、子供の犯罪や生活苦の人の強盗が許されるかというと、許されない。
そうなると、現実的な判断は複数種類必要になりますよね。

1)犯罪を犯した人(もしくは無差別テロを行う人)は、その背景となる事情がなんであれ罰せられなければならない
2)同時に、テロの原因となる環境を改善しなければならない

で、「自分の命を捨てているから、何を言っても無駄。彼らがしたいようにさせるしかない」というのが>>12さんのご意見でしょうか?
しかしそれでは「テロを根絶する方法」としては有効ではないように思いますが……。

そこで、「テロリストがテロに走るのは(子供が非行に走るのは)、テロをせざるを得ないような環境(社会)が悪いんだ」という前提を取る場合、どのような対処法があるとお考えでしょうか?

1)テロリストの言い分を全面的に聞き入れる(スペイン、フィリピンなど)
2)テロリストの言い分を全面的に根絶する(テロという手法を取った時点で、主張の正当性は皆無である、という考え方)
3)テロリストが政治的要求をする相手を根絶する(世界がなくなってしまえばいい)


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