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テロを根絶するためには・・・・
7
:
ヤスツ </b><font color=#800000>(CnaUXqoo)</font><b>
:2004/09/22(水) 03:05
なお、個人的には、とした上で私の意見を述べます。
「抑圧されているし、いろいろ不満はあるけれども、秩序が保たれ安定し平和の世界」
と、
「いつ死ぬかわからず、秩序も安定もない戦いの世界だが、何をするのも(そして、されるのも)自由である世界」
の、どちらが幸せだと思いますか?
私は、もし「平和」が優先事項であるならば、前者「抑圧されて不自由でも平和な世界」を選ぶべきだと思います。
一方で「自由」が優先事項であるならば、後者「平和はなく命の不安が常にあるけれども自由な世界」を選ぶべきだと思います。
テロリストと呼ばれる民族独立運動をする人々は、個人と民族の信条を重ね合わせて、後者の選択をしているのでしょう。
それは彼らの自由かもしれませんが、テロの犠牲になった人々は、彼らと同じ選択をしているわけではありません。
では、そうした「不自由でも平和な世界」を望む人と、「平和でなくても自由な世界」を望む人が対立した場合、どちらを優先させるべきだと思いますか?
不思議なのは、平和を希求する人ほど自由を強く主張し、抑圧を伴った平和(秩序の安定)を唾棄しようとすることにあります。
テロリストと呼ばれる民族独立運動の「目的」を支持する人は、「目的」と「手段」のどちらが優先されるべきかを選ばなければならないと思います。
手段を拒否することで目的が達成されなくなるという場合は、「代替手段」を示すか、目的を諦めるかのどちらかとすべきでしょう。
また、代替手段を示せないうちは、取れる現実的な方法(=被害者を増やさないことを第一義にするなら)は、「目的の否定」に集約されることでしょう。
つまり、「旧支配者の支配をそのまま受け、旧支配者に従うことで安定を得る」しかないだろう、と。
旧支配者への抵抗が何よりも優先する、という考えを支持するなら、テロという手段によって起きた全ての結果も肯定しなければならないのでは、と思ってみますがいかがなものでしょう。
ちなみに、「抑圧された平和」と「死と隣り合わせの自由」の二択について言えば、私が個人の立場ではなく為政者の立場でそれを選べと言われたなら、「抑圧してでも平和(安定)」を選ぶでしょう。
それを阻害するものがあった場合、全力で排除する、ということになるでしょうね。
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