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テロ対策
354
:
ヤッス
:2004/05/05(水) 13:42
>>327
猫は人間の世界について理解が浅い。
キリスト教は戒律を守り、それ以外の生き方をしない、させないために、
そうした「規律/マニュアルの遵守」をさせるようにできている。
これは他の衆生救済系宗教でもそうなんだけど、いくつかの理由による。
ひとつには、「うまくいくひとつの方法/正答/解法」を予め示しておくこと
で、その方法を最初から採らせる、ということ。人間は体験から対策を
考え出していくが、全ての人間が全ての体験を、予めしておけるわけで
はないから、未然に誰かの体験に基づいた対策を知っておくことで、対策
の共有を図ろうとする。つまりは、共同体で対策を共有するわけだな。
その共有の対策を「これを守っておけば間違いない」というカタチに描き
出したものが教典なわけだ。
この発想は、キリスト教が砂漠で発生し、寒冷地に広まった(その後、
貧困の多い場所に広まった)ことからもわかるように、「生存手段を
確立し、それに従わないと死んでしまう」ということから、「手順、マ
ニュアルの遵守」を徹底するために進化したということ。
「この方法に従わないと死ぬ。救われない」というのは、慣用句では
なく、一種生活の知恵なわけだな。
道徳とか規則というのは、生存のための方便だが、その点では宗教
は近代的な法契約意識が普及する以前に、「習慣と方便」から生まれた
ものと言えるわけだな。
もうひとつの効果として。宗教というのは、類例を整備して教典を作る
が、それは自然と整備されて単純化されていく。単純化しないと信徒
が覚えきれないから(w)だが、同時に単純化して覚えやすいものに
信徒を「はめ込んで」行くことで、規定基準の中に人間の行動を押し込め
管理し易くさせる、ということでもあるのだな。規律に反した行動はさせ
ない、すると罰が当たる、みたいな。
道徳云々というのも、結局は「自然環境の中での個人の生存」「社会環境の
中での個人の生存と社会の維持」のためのものなわけで、「個人の欲の
ために社会を破壊してよい」ということは一言も言ってない。むしろ逆。
ところで、そのことの説明と
>>327
の最後の段落がまるで繋がってない
のだが、何を説明したかったのかね?
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