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売買春の是非について語れ!

974ヤスツ ◆0lcRIkF0ks:2006/03/29(水) 01:25:18
愛のないセックスがいけない場合、セックスは常に愛が伴わないといけない、愛が伴う場合は必ず子作りも伴わなければ愛はまやかしになる、ような気がします。
そうすると、セックスは子作り以外のときにはすべきではないことになるわけで、娯楽としてまたは「子作りではなく快楽を求めることが主眼」のセックスや、生理的ストレスの発散としてのセックスは否定されることになります。

生理的なストレスというものをため込むことで、精神的に不安定になったり、性ストレスの発散のための犯罪に走ったりという可能性もありそうです。
また、愛のないセックスは否定されるということになると、「愛をつなぐ相手のいない者」の性ストレスは、解消できないことになってしまいます。
ブサメンだろうが、森三中だろうが、性ストレスというものは解消しなければたまっていくものであるわけでして、そうしたストレスの解消手段を「愛がないから」という理由で差し止めてしまうのは、別種の社会・公共的リスクを生む温床になってしまうような気がします。

「愛がないといけない」というのは、「過剰な生殖(=貧困下での子だくさん)」を避けるための戒め/方便なのかもしれません。
無尽蔵に子作りをさせないための抑止的戒告とかそういった意味での。
そういう戒告が必要な背景にあるのは、「貧乏、やることない、もっとも手軽な娯楽、セックス、子だくさん、貧乏」というセックスと子だくさんと貧乏のスパイラルが実際にあるからなのだろうなあ、とも。
そうした「手軽な娯楽=愛がなくてもするセックス」を抑止するのは簡単ではないので、宗教的権威を用いてそれを強制するのだろうと思われます。

一方で、「貧乏で子だくさんは可哀相」というのは、子供を「ひとつがいの夫婦」だけで育てる、というのが前提になっている社会で通用する概念で、例えば「集落・地域で、両親の異なる子供をひとつの集団として育てる」ような育児スタイルを持っていた場合、「愛がないセックスで子だくさんだと貧乏で不幸」という概念は発達しないのかもしれません。

日本は大陸文化の他に、南方文化を色濃く受けていて、九州地方の「若衆宿(日本風の寄宿制度です)」も、ポリネシアあたりにまで広がる太平洋の文化とつながりがあると言います。
これらは、広く日本に見られる習俗で、「ある年齢の子供〜若者を、地域の子供として育てる」というものでして、近代以前の日本にあった「寺子屋・手習い」や、近代以降の「学校制度」も、こうした若衆宿文化によって「子供を集団で育てる」という慣習がもともと根付いていたから、という話もあります。
まあ、このあたりは脱線。

ともあれ、いろいろ想像のふくらむ話題ではありますね。




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