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占領軍の性犯罪に被占領国はどう対処しましょうか

1スライムベス:2003/10/30(木) 22:19
今まで出ているのは

1.慰安婦(対価を払って募集するか、抽選で決めるか)
2.セックスボランティアの募集。
3.徹底的な取り締まりと厳罰主義(断固戦う)。

くらいでしょうか。
どなたか他に案があれば出してください。

93ヤスツ </b><font color=#800000>(CnaUXqoo)</font><b>:2003/11/04(火) 01:14
以下は、少々スレ違いと思われるかもしれませんが、「軍事都市の近くに売春宿を公認する日本の特殊性(?)のルーツ」を、主に【武蔵氏】に紐解くための補記として(笑)

日本史における「遊女」の位置づけを遡ると、日本人の「性感覚」のおもしろさが浮かび上がってくるような気もしますねー。他国については「中世時代以前」の同様のテーマに関する資料があまり残っていないそうなんで図りかねるんですが。
(他国に、庶民の遊びについての資料があまりないのは、以前にも触れましたが「識字率」と「書籍の普及率、需要、供給」と関連があるようです。知識があることと知恵があることはもちろん違いますが、智慧があることと字が書けることも別ですからねー(^^;))
少なくとも明治期くらいまでの(舶来思想が入ってくる前の)日本というのは、遊女に対してもけっこう寛容なんですよ。
武蔵氏の言うような「性行為とは精神的に云々……」という、一夫一婦制を前提とした妾排除的・夫婦の純潔性維持的な発想(その割に家父長制を拒否してる武蔵氏の二面性はよくわからんのですが(^^;))は、あくまで「日本史の中では新しめの感覚」ということで。

江戸幕府は「吉原」を掘り割りで囲み他の地域と「分けて」いました。これは、「遊女を逃がさないため」というだけでもないんですね。
(掘り割りで囲んだり、木戸を設けてそこ以外からの出入りを禁止していたのは遊郭だけじゃないですからね)
やはり公衆衛生上の問題もあったみたいです。
江戸は男女の人口比が9:1から7:3くらいという男性偏重の都市でした(これは、武士の駐留(笑)が多かったことや、町人も大工など土木系の職人が多かったことが理由みたいです)。
そうなると、やっぱり男の生理的欲求を解消するための施設としての遊郭(吉原)の設置はどうしても避けられなかったわけです。

当初の吉原は今の人形町のあたり(だったかな)にあったらしいんですけど、「江戸」の中枢部がどんどん拡張するに至って、「将軍様のお膝元(しかも江戸のど真ん中)に遊郭があるのはどうか」ということで、広さを2倍にして、江戸中枢部よりもっと田舎の橋向こうに引っ越しさせられた。これが新吉原ですな。
当時の江戸の男衆(おとこし)は、夕方くらいから提灯持って、1〜2里も歩いて新吉原に行ったそうで。
今の「フーゾク」もそうなんですけど、「金払ってやるだけ」じゃないんですよね。日本の風俗って。これはどうも昔からそうだったみたいです。
吉原・新吉原の時代なんかだと、太夫は当然「一見さんはお断り」だし、そうでないにしてもやっぱり「女選んで、飲んで、仲良くなれば次の間へ」てな具合で、女をその気にさせられない愚鈍な話しかできない男はソデにされちゃうわけですね。(古典落語によくそういうのをテーマにした噺がいっぱいありますが、聞いたことないですか?)
その意味で、日本人の性感覚では「女を買う」というのは、「女性の尊厳を金で買う」という支配的かつ一方的なものではなく、「お金を払って一夜限りの恋人になっていただく」というコミュニケーション重視のものだったみたいです。(もちろん、もっと気楽な「飯盛り女」や「岡場所の遊女」もいますけどね)

94ヤスツ </b><font color=#800000>(CnaUXqoo)</font><b>:2003/11/04(火) 01:14
(続き)

江戸はその初期においては(もちろん後期も)「将軍の起居する軍事都市」として開かれています。
江戸城は「城塞」であって軍事基地ですからね。名目上。
そして、参勤交代によって全国からやってくる大名とその配下の武士達というのは、「多国籍駐留軍の兵士」なわけです。
駐留軍は1〜2年で交替していきますが、それでも「生理的欲求の解消と、コミュニケーションの欲求の解消という需要」はあった。そういう需要に応えるための「商売」も制度としても文化としての成長していた。
軍事都市(軍隊が駐留する都市)と遊女の関係は、こんなところにルーツがあると見てよいでしょうね。
もちろん、江戸は諸国大名によって「占領」されていたわけではありません(^^;)が、吉原/新吉原については「管理監督」はしているけど、その運営は基本的に官はタッチしない、という方針だったハズ。(資料を読み返すのが面倒なんでご勘弁を)

戦前の日本というのは、「江戸幕府を倒した薩長軍による明治新政府体制」なわけですから、文化的にはそのへんの感覚と洋行組の輸入した概念のミックスです。
洋行組が海外から持ち帰った概念は、政府や行政、公衆感覚など社会の設計には大いに影響を与えているわけですが(女性がそのへんの道ばたで立ち小便をしなくなったのも、銭湯が男湯と女湯に分かれたのも、この時代です(笑))、「シモ」に関わる問題についてはそれ以前からの文化が多く引き継がれてるみたいです。
先にも名前が出た「木戸孝允」など明治を築いたのエライ人(^^;)は、田舎侍出身が多かったですから、「情報戦」に役立ち、なおかつ聡明で美人だった当時の高級娼婦を妻に取るというのが、ひとつのステータスにもなっていた。
その慣習もあってか、「戦場・軍人・娼婦」というのは違和感なく繋がっていますし、娼婦を乱暴に扱うのは田舎者がすること、みたいな文化があったみたいです。

このように考えていくと、「戦地で現地女性を強姦させないために、自前で慰安所を持つ」「慰安婦の地位と【価値】を明確にすることで、慰安婦を保護する」ということを、戦前までの日本は「すでにやっていた」ということになります。

このスレでは「占領軍の手弁当」は論じないことになっていますので、このへんにしときますが(^^;)、その制度は「現地への影響」や「慰安婦の保護」を考えれば、あながち間違ってもいなかった、ということが朧気ながら見えてくると思いますよ。

「娼婦は可哀相」という概念を生み出したのは、正に「戦後の日本人」ですから。




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