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占領軍の性犯罪に被占領国はどう対処しましょうか

93ヤスツ </b><font color=#800000>(CnaUXqoo)</font><b>:2003/11/04(火) 01:14
以下は、少々スレ違いと思われるかもしれませんが、「軍事都市の近くに売春宿を公認する日本の特殊性(?)のルーツ」を、主に【武蔵氏】に紐解くための補記として(笑)

日本史における「遊女」の位置づけを遡ると、日本人の「性感覚」のおもしろさが浮かび上がってくるような気もしますねー。他国については「中世時代以前」の同様のテーマに関する資料があまり残っていないそうなんで図りかねるんですが。
(他国に、庶民の遊びについての資料があまりないのは、以前にも触れましたが「識字率」と「書籍の普及率、需要、供給」と関連があるようです。知識があることと知恵があることはもちろん違いますが、智慧があることと字が書けることも別ですからねー(^^;))
少なくとも明治期くらいまでの(舶来思想が入ってくる前の)日本というのは、遊女に対してもけっこう寛容なんですよ。
武蔵氏の言うような「性行為とは精神的に云々……」という、一夫一婦制を前提とした妾排除的・夫婦の純潔性維持的な発想(その割に家父長制を拒否してる武蔵氏の二面性はよくわからんのですが(^^;))は、あくまで「日本史の中では新しめの感覚」ということで。

江戸幕府は「吉原」を掘り割りで囲み他の地域と「分けて」いました。これは、「遊女を逃がさないため」というだけでもないんですね。
(掘り割りで囲んだり、木戸を設けてそこ以外からの出入りを禁止していたのは遊郭だけじゃないですからね)
やはり公衆衛生上の問題もあったみたいです。
江戸は男女の人口比が9:1から7:3くらいという男性偏重の都市でした(これは、武士の駐留(笑)が多かったことや、町人も大工など土木系の職人が多かったことが理由みたいです)。
そうなると、やっぱり男の生理的欲求を解消するための施設としての遊郭(吉原)の設置はどうしても避けられなかったわけです。

当初の吉原は今の人形町のあたり(だったかな)にあったらしいんですけど、「江戸」の中枢部がどんどん拡張するに至って、「将軍様のお膝元(しかも江戸のど真ん中)に遊郭があるのはどうか」ということで、広さを2倍にして、江戸中枢部よりもっと田舎の橋向こうに引っ越しさせられた。これが新吉原ですな。
当時の江戸の男衆(おとこし)は、夕方くらいから提灯持って、1〜2里も歩いて新吉原に行ったそうで。
今の「フーゾク」もそうなんですけど、「金払ってやるだけ」じゃないんですよね。日本の風俗って。これはどうも昔からそうだったみたいです。
吉原・新吉原の時代なんかだと、太夫は当然「一見さんはお断り」だし、そうでないにしてもやっぱり「女選んで、飲んで、仲良くなれば次の間へ」てな具合で、女をその気にさせられない愚鈍な話しかできない男はソデにされちゃうわけですね。(古典落語によくそういうのをテーマにした噺がいっぱいありますが、聞いたことないですか?)
その意味で、日本人の性感覚では「女を買う」というのは、「女性の尊厳を金で買う」という支配的かつ一方的なものではなく、「お金を払って一夜限りの恋人になっていただく」というコミュニケーション重視のものだったみたいです。(もちろん、もっと気楽な「飯盛り女」や「岡場所の遊女」もいますけどね)




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