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戦争と性−進駐軍慰安婦より
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フィリピン慰安婦の証言
N・ヘルテルデス・バリサリサ
一九四一年、父のパートナーだった男性と結婚し、夫と共にビコール地方へ転勤しました。日本占領下でも、夫は南カマリネス州の地方エンジニアとして仕事をしており、家には多くの使用人がいて、豊かな生活を維持していました。子どもは、娘二人を一九四二年と四三年に出産しました。
ところが、このような幸せな生活は一九四三年までだったのです。そのころ、南カマリネス州とレガスピ市を結ぶ橋がゲリラによって爆破され、夫が疑われました。日本軍は夫を拘束し、橋の再建を命じました。その橋が再建されたあとも、夫を信用していない日本軍は、車に夫と私をいっしょに乗せ、橋の上を何度も往復させましたが、それが私が日本人と会った最初でした。
その後、夫がレガスピ市に転勤になり、父も遠方の建設事業に駆り出され、家には私と子どもと使用人しかいなくなりました。一九四四年二月ごろ、日章旗を掲げた軍用車が家にやってきて、私を連行しました。いったん、アルバイのレーガン兵舎に入れられた後、他の若い女性らとともに、南カマリネス州のジャングルのなかにある日本軍の駐屯地に連行されました。そこには六人の女性がいました。
指揮官は、コバヤシといい、肩章に星が二、三個ある将校で四十歳くらいでした。そのコバヤシが、私を自分の官舎に連れていきました。最初その将校は、私に自慰の手伝いをさせようとしましたが、私が拒否したため、ステッキで手といわず足といわず殴打しました。その後私は歩くのが不自由になりました。
その士官は、「これがお前の仕事だ」と叫んでいました。コバヤシは、他の女性との会話を禁止し、建物の外を歩かないように厳命しました。日光浴のときも部屋のなかから出られません。あるとき、三十歳の仲間の女性が外へ出たため、射殺されたのを見たことがあります。コバヤシという将校はアメリカの大学を出ていると言っていましたが、英語の発音が悪く、私が英会話を教えることもあったので、後には好意を示すときもあって乱暴なことはなくなりましたが、ほかの士官は極めて乱暴でした。
私は、ここで一年二カ月くらいのあいだ、奴隷生活を強いられることになりました。昼は洗濯や食事の世話を命じられ、夜はコバヤシやほかの士官の性的対象となりました。毎日、三人から五人の相手をさせられました。コバヤシ以外の士官はしばしば暴力をふるい、モノのように私を扱いました。私は、いつもそのように扱われるのを拒否していたため、毎日拷問と強姦が続きました。週一回医師の検診がありました。お金は一切もらえませんでした。ほかの女性たちがどうなっていたかわかりませんが、ときどき悲鳴や泣き声が聞こえていました。
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